あさが来た|広岡浅子の病気と死因は?何度も死にそうになっていた!
朝ドラ『あさが来た』では、あさは難産の末に娘の千代を産みましたね♪
しかしホッとしたのも束の間で、九州の加野炭鉱で落盤事故が起こってしまい、
あさは五代友厚とともに早急に加野炭鉱へ向かいます。
産後の休暇はとったもののまだ千代は小さいですし、
あさの働き者ぶりには頭が下がりますよね~
ドラマで描かれるあさの魅力のひとつは、何といってもその行動力!
万人が躊躇するようなことも、大胆にその一歩を踏み出します。
そしてこのあさの行動力を陰で支えているのが、強靭な肉体です。
ドラマ内でもあさはたびたび「体は丈夫」と言っていますが、
モデルとなった広岡浅子もとても丈夫な体の持ち主でしたし、
何度も死の危機を乗り越えています。
今回は広岡浅子の病気や死因についてご紹介していきます。
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広岡浅子の病気と死因は?何度も死にそうになっていた!
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広岡浅子はその生涯において、二度の大病を経験しています。
一度目は若いころにかかった結核です。
当時の結核は労咳とも呼ばれ致死率が非常に高い危険な病気です。
ドラマでも加野屋の長男の正太郎がこれによって亡くなっています。
史実でも高杉晋作や樋口一葉、正岡子規、滝廉太郎、石川啄木らの著名人が
若くして結核で命を落としています。
ドラマでは描かれませんでしたが、浅子は諸藩に貸付金の回収や東京の毛利
(ドラマの玉利のモデル)に借金の返済猶予を求めに行ったころに結核を患っていました。
しかも浅子のすごいところは病の床につくのではなく、
病気をおして仕事を続けたところです。
結核が伝染病という観点からは疑問が残りますが(だからドラマで割愛されたと思います)、
逆に言えば当時の加島屋の経営が火の車で一刻の猶予もなかったのでしょう。
そんな状態の浅子でしたが、なんと結核は自然治癒してしまいます。
不治の病のイメージさえある結核ですが、激務をこなしながら
治ってしまう人もいたのですね~これには驚きです。
そして二度目の大病は乳がん です。
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これは浅子が60歳の時に判明したものです。乳がんも重度でしたが、
問題は浅子自身が高齢で手術に耐えることができるかどうかでした。
実際に浅子も最悪の場合を想定して、身辺整理をおこなったようです。
しかし乳がんの大手術からも浅子は無事に生還します。
このことがきっかけで、浅子はキリスト教に入信して
かねてからの女子教育の普及にもいっそう熱心に取り組みことになります。
やはり死を覚悟したにも関わらず生還できたことは、
浅子に大きな影響を与えたようですね~
それにしても当時の60歳という年齢で、大手術を乗り切ったというのは
やはり浅子の強靭な肉体があったからですね~
病気以外にも、浅子は加島屋を逆恨みした元同業者に刺されて
出血多量で生死の境を7日間も彷徨いますが、無事に生還しています。
そんな浅子でしたが、大正8年(1919年)に71歳で亡くなります。
死因は腎臓炎でした。
しかし浅子は亡くなる前年に著書の「一週一信」を刊行していますし、
死の直前まで人生の後半のライフワークであった女子教育の向上に
関わっていたと言われます。
大正時代の女性の平均寿命は40歳代です。
それにも関わらず71歳まで生きたばかりか、死の直前まで仕事をしていたのは
凄いですね~本当に浅子は死ぬまで突っ走ったのですね♪
ちなみにドラマの千代のモデルにあたる浅子の娘の亀子も、
なんと97歳まで生きました。
ドラマでも大胆な行動力で視聴者を楽しませてくれているあさですが、
何度も死の危機を乗り越えるほど丈夫な体の持ち主だったのですね~
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