わろてんか|キースとアサリのコンビがまさかの解散!どうなってしまうの?
朝ドラ『わろてんか』では、北村笑店NO.1の人気漫才コンビのキースとアサリがなんと
解散することになります。
離反や再集結を繰り返しながら「しゃべくり漫才」を完成させて、一躍人気コンビとなった
キースとアサリ。
漫才ブームの立役者にもなりましたし、しゃべくり漫才の普及にも大きく貢献しました。
先日おこなわれた全国漫才大会では下馬評通りの実力を発揮して、順当に優勝もしていました。
そんな彼らが人気絶頂にも関わらず、解散してしまうのはどのような理由があるのでしょうか?
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キースとアサリのコンビがまさかの解散!どうなってしまうの?
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キースとアサリのコンビの解散を決めるのは、彼らの育ての親でもある風太です。
風太はこのコンビの陰の立役者で、しゃべくり漫才を完成させるためにもかなりの尽力を
してきました。
そんな風太が手塩にかけたこのコンビを解散させる理由は、さらなる漫才の普及のためです。
風太の考えるプランはコンビ解散後にキースを東京に派遣して、首都圏でのさらなる漫才ブーム
を巻き起こそうとするものです。
キースは以前、東京で活動していましたから、このあたりも東京派遣の白羽の矢が立った理由です。
アサリは依然として大阪の寄席で活動することから、コンビは解散となってしまうのです。
う~んこれはちょっと残念ですね~どうせなら解散せずにコンビで東京に進出するという
選択肢もあるはずなのに…
とは言え、これは史実に基づいた展開です。
他の記事でもご紹介しましたが、キースとアサリのコンビのモデルとなっている横山エンタツと
花菱アチャコのコンビも短期間で解散しています。
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昭和5年(1930年)にコンビを結成したエンタツとアチャコは、その後にしゃべくり漫才を
完成させて一世を風靡することになります。
吉本興業部は昭和9年(1934年)ごろに本格的に東京への進出を試みて、同年4月に新橋演舞場で
「特選漫才大会」を開催しますが、大成功に終わります(エンタツ・アチャコの参加はなし)
これに気をよくした吉本は同年8月にも新橋演舞場で漫才大会を開催し、その際の目玉は
東京初見参のエンタツ・アチャコのコンビでした。
ここで彼らは得意のネタである「早慶戦」を披露して、東京のファンにも大いにウケることに
なります。
ところが10日間の大会の途中でアチャコが中耳炎を患って、自分の声すらよく聞こえない状態
となります。
そんな中でもエンタツ・アチャコのコンビは舞台を務め上げました。
その後帰阪して9月5日にラジオの寄席中継で「君は軍人?」というネタを披露しましたが、
アチャコの中耳炎はさらに悪化して大阪赤十字病院に担ぎ込まれることになります。
当時の中耳炎は死をももたらす病気でしたので、アチャコの入院生活は1か月間にも及びました。
ところがエンタツの変わり身は早く、林正之助と相談してアチャコには無断で杉浦エノスケと
コンビを組むことを決めていたのです。
しゃべくり漫才で一世を風靡したエンタツ・アチャコのコンビですが、実は実働3年9か月という
短命に終わっていたのです。
エンタツがこのような行動に出たのはアチャコの生命の危機もありましたが、
実はギャラの折半を嫌ったことも大きな理由でした。
アチャコとはギャラは五分五分の折半となりますが、格下のエノスケならば七分三分で済むからです。
このあたりにはかなりシビアなエンタツの性格が窺えますが、突然のコンビ解散を知らされた
アチャコは涙したと言われています。
中耳炎が治ったアチャコはかつての相方の千歳家今男とのコンビで、漫才師として復活を
遂げています。
史実はこのような感じですが、キース&アサリのモデルとなっているエンタツ・アチャコの
コンビも短期間で、しかも人気絶頂時に突然の解散をしていたのです。
ドラマではそれなりの「大義」のもとでのコンビ解散となりますが、別々に活動することになる
彼らの今後にも注目です。
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