わろてんか隊のモデルは吉本興業のわらわし隊!中国戦線の慰問団
朝ドラ『わろてんか』では、新聞社からの要請で北村笑店は中国戦線に慰問団
「わろてんか隊」を派遣することになります。
そのためかつての看板コンビだったキースとアサリや夫婦漫才で鳴らした万丈目夫婦などの
コンビも復活。
中国大陸に渡って、行く先々で日本軍の兵士たちを笑わせることになります。
このあたりはなんともスケールの大きなエピソードとなりますが、実際に戦前の吉本興業が
派遣した慰問団「わらわし隊」がモデルとなっています。
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わろてんか隊のモデルは吉本興業のわらわし隊!中国戦線の慰問団
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わろてんか隊のモデルとなっている吉本興業の慰問団わらわし隊が、最初に中国大陸に
向かったのは昭和6年(1931年)9月の満州事変の勃発の直後です。
この慰問団の派遣計画を企画したのは吉本せいの実弟の林正之助で、その真意は純粋に
日本兵を励ますためだけではなく、慰問団を新聞が書き立てるに違いないという
したたかな計算がありました。
そのため正之助が朝日新聞に働きかける形で慰問団の計画は実現します。
同年の12月1日に慰問団わらわし隊は現地に到着しますが、メンバーは横山エンタツと
花菱アチャコのコンビ、講談の神田山陽、漫談の花月亭久里丸と吉本興業の滝野支配人という
ラインナップでした。
翌年の1月までわらわし隊は満州各地の駐屯軍や前線を回りましたが、いずれも大好評でした。
また正之助の狙いも的中して、新聞各紙ともにわらわし隊の活躍ぶりを何度も取り上げた
ことから、当時売り出し中のエンタツ・アチャコのコンビはブレイクしますし、吉本の名前も
全国に轟くことになりました。
そして2度目のわらわし隊は昭和13年(1938年)に、再び中国大陸に派遣されています。
ドラマの「わろてんか隊」のモデルになっているのは、こちらのほうです。
2度目のわらわし隊は芸人を売り込むためではなく、軍部や世論の批判を避けることが
主な目的でした。
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昭和12年(1937年)に勃発した日中戦争は泥沼化して、戦時色も一気に強まりました。
そうなると吉本の経営する寄席の公演や笑いは「不謹慎」とされがちになります。
実際に当時は政府の検閲も厳しくなって、寄席の公演にも警察官の監視つきでした。
そのため漫才の内容も戦地の兵士の勇ましさを鼓舞したり、出産奨励や富国強兵などの国策を
取り上げるものが増えています。
さらに吉本興業が軍部に協力していることをアピールするために派遣されたのが、2度目の
わらわし隊でした。
2度目のわらわし隊は大規模で、大連・北京方面の北支班と上海・南京方面の中支班によって
構成。
北支班には花菱アチャコと千歳家今男、柳家金語楼や柳家三亀松、京山若丸といったメンバーでした。
中支班には横山エンタツと杉浦エノスケ、ミスワカナと玉松一郎、石田一松、神田ろ山らの
芸人たちが名を連ねていました。
一行は昭和13年1月の中頃に中国大陸に到着し、北支班は大連や天津を経由して、沙河や太原の
最前線まで足を延ばして慰問しています。
最前線では敵の塹壕の手前で砲撃がはじまる中、芸を披露したりしましたが、大好評でした。
一方の中支班は上海から陸路と空路で南京入りしています。
林正之助や横山エンタツらは戦闘機で南京まで乗り付けています。
その後に列車で到着したミスワカナらと合流し、南京国民大会堂で
「陸海軍部隊将士の慰問演芸」を3日間にわたって開催し、こちらも大好評でした。
こうして2度目のわらわし隊は、およそ1か月間にわたって中国大陸を65か所も巡業して
帰路についています。
また日本国内でもわらわし隊の動向は新聞などに毎日のように書かれて注目されており、
帰国の際には吉本興業はちゃっかりと「わらわし隊凱旋公演」を開催しています。
ドラマの「わろてんか隊」には、このような史実が下敷きにあるのです。
モデル同様、豪華なラインナップにもなりそうなので注目ですね♪
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