わろてんか|東京北村のモデルは東京吉本!いつの間にかできていた
朝ドラ『わろてんか』では、北村笑店がいつの間にか本格的に東京へ進出していました。
東京北村という会社組織も誕生したようで、そこで開催しているレビューが大いに
ウケているようです。
また人気絶頂だったキースとアサリのコンビを解散させて、キースを東京北村に派遣する
ことにもなりました。
そしてこの東京北村のモデルとなっているのが、東京吉本です。
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東京北村のモデルは東京吉本!いつの間にかできていた
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現在の東京吉本は実は吉本興業とは別会社(グループ企業ですが)になっていますが、
戦前の吉本東京はあくまでも吉本興業部の東京支社という扱いでした。
吉本興業部は大正11年(1922年)から東京に進出。
昭和初期ごろから首都圏への進出を本格化させて、昭和7年(1932年)に吉本興業部の
東京支社としての東京吉本を発足させています。
そして当初から東京吉本を仕切っていたのが、吉本せいの実弟の林弘高
(一部隼也のモデル)です。
弘高はせいよりも18歳、実兄の林正之助とは8歳年下で、中央大学法学部を卒業した
インテリでした。
豪快で知られた兄の正之助とは正反対なタイプで、そりも合わなかったことから、
せいは当初からふたりを離して弘高に当初から東京を任せたと言われています。
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東京吉本は伝統的な演芸を重視した大阪の吉本興業部とは異なり、モダン・ハイカラ路線を
とって人気を博します。
いちはやくアメリカのレビューであるマーカス・ショウを招聘していますし、
その成功を受けてレビューの「吉本ショウ」を立ち上げて、浅草花月の目玉となっていきました。
(吉本ショウ)
また寄席の興行も本家の吉本興業部とは一線を画し、漫才や落語のほか、プログラムに
映画の上映や流行歌手の歌などを挿入して人気を博しています。
1日6時間ほどの公演でしたが、そこでは漫才や落語の演芸はもちろんのこと、
映画や歌や芝居なども見ることができる総合娯楽センターのような感じでした。
また専属芸人も大阪吉本とは別で、大阪では横山エンタツと花菱アチャコ、ミスワカナと
玉松一郎らが看板芸人でしたが、東京吉本では柳家金語楼や柳家三亀松、あきれたぼういず
などが看板芸人でした。
ドラマでは会話でしか東京北村は登場しませんが、東京吉本はこのように大阪とは別路線で
人気を博していたのです。
大阪よりもかなり華やかだったので、ドラマで描かれないのは残念ですね~
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