わろてんか|吉本は芸人をクビにして漫才をやめていた!空白の13年とは

 

朝ドラ『わろてんか』で特筆すべきは、北村笑店が芸人を非常に大切にしていることです。

 

藤吉の代から芸人本位の姿勢で寄席の経営にあたっており、その精神は死後もてんに

引き継がれています。

 

そのため芸人からの信頼も厚く、この点も北村笑店が成功を収めた一因のようにも思えます。

 

ところでモデルとなっている吉本興業は、戦前の時代から芸人の扱いが荒いことで

知られていました。

 

さらに吉本せいや林正之助によって、ほぼすべての芸人をクビにして、漫才を辞めていた

こともあったのです。

 

 

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吉本は芸人をクビにして漫才をやめていた!空白の14年とは

 

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吉本興業が所属芸人のほぼすべてをクビにして、漫才をはじめとする演芸から

撤退したのは昭和21年(1946年)のことです。

 

周知の通り戦前は大阪の演芸界を席巻して、さらには東京に進出して浅草花月を

成功させるなど黄金時代を築きました。

 

ところが太平洋戦争末期の東京大空襲や大阪大空襲などによって、大半の寄席や劇場を

失います。

 

しかしやはり演芸界の王者としての意地を見せ、終戦から2か月後の1011日に

大阪に残っていた漫才師や芸人たちを集めて、千日前の常盤座ではやくも興行を

再開しています。

 

常盤座も大阪大空襲で焼け落ちたのですが、突貫工事で再建してバラックのような建物で

公演がおこなわれたようです。

 

食糧難の時代ですが、芸人たちも意地を見せて痩せこけた姿で舞台に立ったと言われています。

 

また中には復員したばかりで、軍服姿の者もいたそうです。

 

しかし客の入りは今一つで、利益もほとんど出ませんでした。

 

さらに同年の12月には大阪花月劇場がモルタルのバラックで再開されて、

「歳末笑演公演」を開催。

 

翌年の春には東京吉本が日比谷公会堂で、「吉本芸能祭」を開催しています。

 

ところがこれらの興行成績は芳しくなく、これでは所属芸人や社員たちの給料すら払えません。

 

また当時は映画の興行成績が好調で、これらも吉本の興行の不振の一因となったようです。

 

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そのため昭和21年には吉本せいと林正之助は演芸界からの撤退を決めて、明治45年(1912年)

の第二文藝館のオープンからはじまった吉本王国はあっけなく崩壊します。

 

所属芸人たちは「一生面倒を見る」との一筆をとられていた花菱アチャコ以外は全員クビ。

 

ただしその交換条件として、これまでの借金が帳消しとされています。

 

その後の吉本は進駐軍相手のキャバレーや映画館、ボーリング場など異業種にチャレンジしています。

 

また大阪の演芸界の雄だった吉本の撤退によって、松竹が大阪に一大勢力を築くことになります。

 

その際に吉本を解雇された芸人たちの多くが松竹に流れています。

 

吉本興業は昭和34年(1959年)にうめだ花月をオープンさせて演芸界に復帰しましたが、

既に大阪の演芸界での力関係は一変しており、巨大な松竹に挑むという構図となっています。

 

ただし以降は数多くの人材を発掘して松竹を追随して、現在では肩を並べるほどの存在と

なっています。

 

いずれにしても吉本興業は、吉本せいの生前に寄席を閉めて、演芸界から撤退しています。

 

夫の泰三とともに裸一貫からスタートして、戦前の大阪に演芸王国を築いた吉本でしたが、

その崩壊を目の当たりにしてせいはどのような気持ちだったのでしょうか?

 

察するに余りあるところですね…

 

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