まんぷく|池田信用組合モデルは大阪華銀!百福人生最大の失敗とは?
朝ドラ『まんぷく』では、萬平が池田信用組合の理事長に就任することになります。
当時の萬平は国の追徴課税に抗議して提訴したことから、全国的な広まりを見せていた徴税反対デモの旗頭のような存在になっていました。
そして大鳥勘一という人物が現れて、大阪の池田の産業を活性化するために新たに「池田信用組合」を立ち上げることになり、その理事長に萬平を迎えたい旨を申し出ます。
お金や経済についての知識のない萬平でしたが、「世の中の役に立つなら」と考えて、小野塚真一も経営に関わらせることを条件にこれを承諾します。
この萬平が理事長を務めることになる池田信用組合のモデルや実話をご紹介します。
実はこの信用組合の理事長になったことが、萬平のモデルとなっている安藤百福の「人生で最大の失敗」となるのです。
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池田信用組合モデルは大阪華銀!百福人生最大の失敗とは?
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ドラマで萬平が理事長を務めることになる池田信用組合のモデルは、「大阪華銀」です。
この信用組合は大阪在住の華僑や華人の出資によって設立された民族系の金融機関でした。
百福がこの信用組合の理事長への就任を依頼されたのは、昭和26年(1951年)のことです。
彼は終戦後からこの時期までは大きな事業を手掛けてはいませんでしたが、非常に裕福でやり手の実業家として大阪経済界の「顔」でした。
戦禍で大阪で経営していた部品工場や自宅を失っていますが、多額の保険金を得ています。
またそれらを元に昭和21年(1946年)ごろから、大阪の中心街である心斎橋や御堂筋、大阪駅前などの土地を買いあさり巨額の富を築いています。
当時は食糧難や就職難などから土地を手放す人が多く不動産の価格はまさに「底値」で、それに目を付けた百福はいち早く多くの大阪の一等地を安価で取得したのです。
また昭和21年3月に実施され、多くの資産家から多額の財産を奪った財産税も、当時は台湾籍だった百福には適用されませんでした。
百福が大阪華銀の理事長就任を要請された昭和26年は、朝鮮戦争の特需がピークだった年で日本中が好景気に沸いていました。
金利も上昇し続けていたことから、各地で信用組合などの金融機関が新規に設立されていた頃です。
また大阪華銀が百福に理事長就任を要請したのは、その経営手腕を買ったからではなく、単なる「名義貸し」が目的です。
当時の大阪で名のある実業家だった彼が理事長を務めているとなると、大阪華銀の信用も上昇して、預金を預ける顧客も増えると考えたのです。
当時百福は41歳でしたが金融関係の仕事に就いたことはなく、知識もなかったので当初は断っていました。
しかし好景気の時代だったこともあり、最終的にはこれを受諾して大阪華銀の理事長に就任しました。
ところがこれが判断の誤りで、百福にとって人生最大の失敗となります。
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大阪華銀の経営は朝鮮戦争の特需の余波もあって、当初は順調に見えました。
また百福が営業担当者とともに心斎橋周辺を挨拶に回ると、多額の預金が集まったと言います。
しかし実はこの信用組合の実態は理事長の百福以下、上層部に誰も金融のプロがいないという素人集団だったのです。
そのためルーズな審査で求められるまま融資をおこなっており、朝鮮戦争の特需が終わると、そのツケが回ってくることになりました。
そして昭和31年(1956年)頃には、大阪華銀は多額の不良債権を抱えることになります。
大阪華銀の後ろ盾には都銀の三和銀行(現UFJ銀行)がついていましたが、経営難と判断されると態度を一転させて、華銀側の財産を次々に差し押さえる「貸し剥がし」がおこなわれました。
また預金者の間でも倒産が噂されるようになって、パニック的に預金を引き出す「取り付け騒動」も起こってしまい、もはや大阪華銀は万事休すとなってしまい経営破綻してしまいます。
百福は名義上の理事長で、大阪華銀の経営にはほとんどタッチしていませんでしたが、理事長としての経営破綻の社会的責任を問われて、すべての財産を失いました。
これまで何度も失敗を経験してきた百福でしたが、借家であった自宅以外はすべて失って、まさに「一文無し」となってしまったのです。
とは言え、このことがきっかけで彼は再起を期すべくチキンラーメンの開発に専念してこれに成功。
大阪華銀で失った財産と比較にならないほどの巨万の富を築きますから、この失敗も無駄にはなりませんでした。
このように「人生最大の失敗」をした百福ですが、ドラマの萬平も同じような運命を辿ると思います。
しかし前記のようにインスタントラーメンの発明へとつながっていきますので、そのあたりにも期待ですね♪
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