まんぷく|立花源ちゃんのモデルは安藤宏寿!福子の子供・長男
朝ドラ『まんぷく』では、昭和22年(1947年)に福子と萬平の間に待望の子供が生まれます。
当時はたちばな塩業の経営も軌道に乗りつつあったところへの長男の誕生ですから、ふたりの喜びもひとしお。
萬平は平賀源内にあやかって「源内」という名前を、福子の母親の鈴は先祖が源氏ということで、「義経」という名前を提案します。
しかしどちらもあまりにクラシック過ぎるということで、福子が提案した「源」(源ちゃん)という名前に落ち着きます。
平賀源内の「源」ですし、源氏の「源」ということもあって、萬平も鈴もこの提案に納得することいなります。
そしてこの立花源のモデルとなっているのは、安藤百福と仁子の長男である安藤宏寿(ひろとし)です。
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立花源ちゃんのモデルは安藤宏寿!福子の子供・長男
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立花源のモデルの安藤宏寿ですが仁子の実子ではなく、百福の台湾時代の第1夫人だった呉黄梅との間に生まれた長男です(他に養女の呉火盆もいた)。
宏寿は昭和5年(1931年)11月24日生まれで、当時の百福は21歳で台湾の台南県東石郡で図書館の司書をしていた時に生まれた子供です。
百福は昭和20年(1945年)に仁子と結婚する際に重婚を避けるために呉黄梅を妾にしていますが、その時には既に宏寿を引き取って、長男として育てています。
当時の宏寿は既に15歳くらいになっていましたから仁子も非常に気を遣い、「宏ちゃん」と呼んで可愛がったと言います。
また日清食品の創業者の百福の息子でありながら、彼に関する資料は驚くほど少なく(後述しますが百福も宏寿については多くを語っていません)、青年時代なども不明な点が多々あります。
ですが彼は安藤家に居つかない子供で、知人宅に長期間滞在したり、ひとりで中国大陸にも渡ったこともあるとのこと。
また成人してもなかなか定職に就かなかったことも判明しています。
加えて昭和33年(1958年)に百福はチキンラーメンの開発に成功しており、当時はともに小学生だった次男の宏基(こうき)や長女の明美らも参加して家族総出で生産していますが、宏寿は積極的に関わっていなかったようです。
とは言え同年の12月に前身の「サンシー殖産」を「日清食品」に改めた際には、宏寿は専務に就任して、以降は会社経営にも参画しています。
また彼も定職に就いたことでようやく落ち着いたようで、その後に中西妙子という女性と結婚し、芳徳と光信という2人の息子にも恵まれています。
以降の宏寿の記録もあまりありませんが、昭和51年(1976年)に日清食品の代表取締役副社長に就任しています。
そして昭和56年(1981年)10月に、彼は日清食品の2代目社長に就任しています。
当時の日清食品は前年の売上がはじめて1000億円を突破した頃で、百福も既に71歳でしたので会長に退いて、社長の座を宏寿に禅譲しています。
ところが百福は会長になっても毎日出社して、会社経営にも口を出したことから後にふたりは激しく対立。
その結果、わずか2年間で宏寿は社長の座を追われて、日清食品を追放されています。
また後に宏寿は台湾に残された実母の呉黄梅は百福から生活費を渡されずに、親戚に頼って暮らしていることなどを告白しており、このあたりにも百福との確執を感じるところです。
その後の彼の詳細は不明ですが、百福が亡くなったのと同じ平成19年(2007年)6月26日にすい臓がんで76歳で亡くなっています(百福は同年の1月5日に96歳で死去)
このような経緯もあることから、百福は宏寿に関してはほとんど話すことはなく、安藤家の「黒歴史」の様相も呈しています。
またドラマの福子のモデルとなっている安藤仁子の実子ではないこともあって、ドラマ内の立花源の造形に関しては多分に次男の宏基の人生がミックスされると考えます。
以下では日清食品の3代目社長の安藤宏基の生い立ちをザックリとまとめていきます。
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日清食品3代目社長の安藤宏基の生い立ち
安藤宏基(あんどう こうき)
1947年10月7日生
日清食品ホールディングス代表取締役社長(CEO)
安藤宏基は安藤百福と仁子の実子として昭和22年(1947年)に誕生。
前記のように宏寿が長男として育てられたので、彼は安藤家の次男となります。
教育熱心だった仁子の影響でキリスト教の幼稚園から進学校の大阪学芸大学附属池田小学校・中学校(現在は大阪教育大学附属)に進学。
小学校では女優のいしだあゆみさんと同級生で、当時はフィギュアスケートの選手だったいしださんにスケートを教えてもらったエピソードも残っています。
子供の頃はかなりやんちゃで、大阪学院大学附属池田高校に入学後も、ベンチャーズのコピーバンドを組むなど活発な高校生活を送っています。
慶応大学の商学部に進学しますが、合格祝いに両親に買ってもらった三菱自動車のコルトに乗って正面衝突事故を起こし、ハンドルが胸に刺さるという重傷を負っていますが九死に一生を得ています。
昭和46年(1971年)に慶応大学を卒業すると、アメリカのコロンビア大学に留学しています。
そして翌年の7月に米国日清食品に入社して、昭和48年には帰国して日清食品に入社しています。
入社後は「創業者(百福)のトップダウンが強すぎるのはよくない」と主張して、マーケティング部を新設して初代部長に就任しています。
またマーケティング部時代にはロングセラーとして知られる「日清やきそばU.F.O.」や「どん兵衛」などの商品を手掛けるなど、辣腕を発揮しています。
私生活では昭和51年(1976年)4月に、妹の明美の甲南女子大学の同級生だった荒牧淑子(よしこ)と結婚して、徳隆と清隆の2人の息子に恵まれています。
前述のように百福は昭和56年(1981年)に社長の座を長男の宏寿に譲りますが、昭和58年(1983年)に宏寿を追放して社長に復帰。
昭和60年6月に宏基は37歳の若さで日清食品の3代目社長に就任して、百福は再び会長に退きます。
社長に就任後は「打倒カップヌードル」を掲げて、大胆な社内改革などをおこなって、「敏腕社長」として知られています。
現在は70歳を超えていますが、30年以上にわたって日清食品のトップとして指揮を執っています。
かなりザックリと安藤宏基の人生をまとめてみましたが、彼のキャラクターや人生もドラマの立花源に反映されそうですね。
いずれにしても源の登場にも期待が高まります。
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