まんぷく|塩軍団のモデルや実話・エピソードなどについて

 

朝ドラ『まんぷく』では、萬平は泉大津での製塩事業のために、多くの若者を雇い入れることになります。

 

神部が大阪で集めてきた若者たちは14名となって、彼らは泉大津の建物に寝泊まりして塩づくりに励むことになります。

 

あたかも「塩軍団」の様相を呈する若者たちですが、彼らのモデルは実際に安藤百福が泉大津で塩づくりをした際に雇い入れた若者たちです。

 

そのモデルや実話、エピソードなどをご紹介していきます。

 

 

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塩軍団のモデルや実話・エピソードなどについて

 

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まず他の記事でもご紹介しましたが、泉大津で塩づくり発案した安藤百福は街に溢れている失業中の若者に職を与えるために、多くの若者たちを塩田の従業員として雇い入れました。

 

彼らの名前などは記録にありませんが、床屋や洋服の仕立て屋、料理人や大工など様々な職業の若者たちが集まっています。

 

「塩軍団」のモデルとなっている若者たちは当初は20名でしたが、食糧難の時代に衣食住の世話はもちろん小遣いまで出たことから、噂を聞いてその後も続々と若者たちがやって来て、最終的には100名を超える大所帯となっています。

 

百福の妻の仁子(福子のモデル)とその母の須磨(鈴のモデル)に加えて、姪の有元冨巨代(香田タカのモデル)も泉大津にやって来て、彼らの面倒を見ました。

 

若者の数が100名を超えた頃には手が足りなくなって、近所から何人もお手伝いに来てもらったそうです。

 

特に仁子と須磨は若者たちの母親代わりのような存在で、恋愛の相談なども引き受けていたと言います。

 

塩田の塩は鉄板の錆で黄色がかっておりさほどの売上にもならなかったことから、彼らの生活は基本的に自給自足でした。

 

百福は彼らに2隻の漁船を買い与え、沖合でアジやカレイ、チヌなどを獲って食べています。

 

また仁子はアルコールを作ることができたため、それにカラメルで色をつけて、ウイスキーのような飲み物を作ってやって、若者たちはたびたび夜が更けるまで酒宴を楽しんだと言います。

 

百福や仁子にとっても彼らとの生活は解放感があって、非常に満足していたそうです。

 

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特に泳ぎの得意な仁子は若者たちとたびたび船に乗り込んで、魚獲りにも参加しています。

 

また若者たちは百福への感謝を込めて楽器のできる者が集まって楽隊を編成して、百福の帰りを楽隊付きで出迎えたこともありました。

 

もっともこれに関しては近所の人に見られると気恥ずかしかったことから、百福はすぐに辞めさせています。

 

このような泉大津での若者たちとの生活でしたが、一部の若者が街でケンカ騒ぎを起こしたことをきっかけに警察に監視されることになります。

 

百福は私利私欲で塩田事業をやっていなかったことから、当時の内務省の高官に警察の監視をやめさせるように求めましたが、そのような抗議はかえって警察の心証を悪くしてしまったといいます。

 

そして昭和23年(1948年)のクリスマスの夜に大阪軍政部長の送別会をしていた場に2人のMPが乗り込んで、百福を逮捕しています。

 

容疑は脱税で、若者たちに渡していた小遣いが所得とみなされて、事業主でありながら所得税を納めていなかった百福が逮捕されたのです。

 

他の記事でもご紹介しましたが塩田事業は採算性がなく、ほとんど百福の持ち出しで成り立っていた事業だったことから、彼は猛抗議をしましたがわずか1週間の裁判で重労働4年の判決が下されて、巣鴨プリズン送りとなってしまいます。

 

また大阪鉄道局から無償貸与されていた塩田施設も没収となって、およそ2年間に及んだ製塩事業も幕切れを迎えています。

 

以上がドラマの「塩軍団」の若者たちと、安藤百福や仁子たちの塩田での日々です。

 

ドラマではたちばな塩業が作り出す塩が高品質で、事業としても大いに成功をもたらすようです。

 

ドラマの「塩軍団」の活躍にも注目ですね♪

 

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