あさが来た|紀尾井坂の変~凄惨を極めた大久保利通の暗殺と最期
朝ドラ『あさが来た』では、初めて上京したあさは五代友厚の盟友
大久保利通と会って意気投合します。
大久保利通は薩摩藩士時代から五代友厚とは昵懇の仲だったことから
ドラマには初期からたま~に登場していましたが、
意外にもあさとの絡みは初めてだったのですね~
そして大久保も五代同様、私利私欲を一切持たずに日本の近代化に尽くした人物
ですから、あさとしても大いに学ぶことがありそうです♪
しかしそんな大久保利通も、間もなく紀尾井坂の変で暗殺されてしまいます。
当時の明治政府のトップだった大久保が暗殺されたこの事件は
世間を震撼させるとともに、明治政府に大きなダメージを与えました。
しかもこの事件での大久保の暗殺は、凄惨を極めていました。
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紀尾井坂の変~凄惨を極めた大久保利通の暗殺と最期
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事件が起こったのは1878年(明治11年)5月14日。
大久保利通は午前8時に明治天皇に謁見するために、
裏霞ヶ関の自宅から赤坂仮皇居へと向かいました。
大久保は二頭立ての馬車に御者の中村太郎と従者の芳松とともに同乗し、
紀尾井坂に差しかかります。
(紀尾井坂の変で大久保が乗っていた馬車)
赤坂の仮皇居へのコースとしては赤坂見附を進んだほうが近道だったのですが、
大久保は赤坂見附は人通りが多いことから紀尾井坂を通っていました。
そこへ書生姿の実行犯の長連豪と脇田巧一が道へ出てきて、
大久保の馬車を遮ります。
従者の芳松が馬車から降りて道を開けるようにふたりに言いますが、
そのうちのひとりが隠し持っていた日本刀でいきなり馬を切りつけます。
立ち往生した馬車の背後からは首謀者の島田一郎、杉本乙菊、杉村文一、
浅井寿篤ら4人が短刀を持って襲いかかってきました。
まずは従者の芳松が襲われましたが、何とか逃げ切り北白川邸に逃げ込みます。
(命には別条なし)
御者の中村太郎は馬が進まなかったため馬車から降りたところ、
喉を切りつけられて刺殺されます。
島田は馬車をこじ開けると、大久保に「無礼者!」と一喝されますが、
構わず大久保の眉間と腰を短刀で突き刺します。
馬車から引きずり出された大久保ですが、かなりの重傷を負っているにも関わらず、
一度は立ち上がります。
しかし島田ら実行犯は6人がかりで大久保をめった切りにして、
最後は倒れたところを介錯として喉に短刀を突き刺します。
大久保は全身16か所に傷を受けていましたが、
その大半は頭部に集中していたといいます。
また事件の直後に駆けつけた前島密は、ひどく損傷した大久保の遺体を見て
「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するのを見る」と表現しています。
それほどまでに大久保利通の最期は凄惨だったのです。
事件の原因や実行犯はどうなった?
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実行犯の島田らは大久保利通の五つの罪を記載した斬奸状
(ざんかんじょう・悪者を切り殺す理由を記載したもの)を持っておりそれによれば、
- 国会も憲法も開設せずに民権を圧迫していること
- 法令の朝令暮改が激しく、官吏の登用にコネが使われていること
- 不要な土木事業や建築で国費を無駄遣いしていること
- 国を思う志士を排斥し内乱を引き起こしたこと
- 外国との条約改正を遂行せずに国を貶めていること
が記載されていました。
前年に起こった西南戦争などの一連の不平士族の反乱と背景は同じように思えますが、
一部には事件の黒幕は(西南戦争で自刃した)西郷に近かった政府の要人
などの説もあるようです。
その後大久保の国葬級の葬儀を経て、7月27日に島田らの裁判がおこなわれ、
全員死刑が言い渡され、その日のうちに執行されています。
大久保は同郷の西郷隆盛を死にやったことでダーティーなイメージもありますが、
国のために私財を投げうつほどの清廉潔白の士でした。
実行犯たちも大久保が権力を濫用して私腹を肥やしていると考えた模様ですが、
それはまったくの誤解でした。
※実際に大久保には8000円もの借金(現在のレートでは約1億6000万円)
が残ったとも言われています。
志半ばでの大久保の非業の死は、当時の明治政府にとっては痛すぎるもの。
そして盟友だった五代友厚のショックも計り知れないですね。
さらには明治政府の独裁者と言われながらも、一切の私利私欲を捨て、
一途に日本の発展を願った大久保の死は、その後の日本にとっても
大きな損失であったことは間違いないでしょう。
大久保があと10年長生きしてくれれば…と考える方は少なくないはずです。
ドラマではあさとの絡みはわずかでしたが、
大久保利通はこのような無念の死を遂げたのでした。
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