あさが来た|山王寺屋が破産、没落した本当の理由は?史実との違い
朝ドラ『あさが来た』では、あさの姉のはつが嫁入りした
山王寺屋の経営が徐々に危うくなっていきます。
はつが嫁入りした当時は、山王寺屋は大阪でもっとも歴史のある両替商で、
一、二を争うほどの豪商でした。
山王寺屋にはつが嫁入りしたのは1865年(慶応元年)ですが、
その3年後の1868年(明治元年)には山王寺屋は破産してしまいます。
よくよく考えてみれば、老舗の豪商として権勢を振るった山王寺屋がたったの3年で破産、
没落してしまうとはよほどのことがあったのですね。
世は江戸時代から明治時代へと突入した時期でした。
その時代ではいったいどのようなことが起こったのでしょうか?
山王寺屋が短期間で破産、没落した理由や史実との違いなどをご紹介していきます。
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山王寺屋が破産、没落した理由
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山王寺屋が破産した大きな理由は、明治維新により江戸幕府や諸藩に貸し付けていた
金銭が返済不能になったことがもっとも大きな理由です。
(天王寺屋の跡地に建立されている碑)
幕末期には江戸幕府はもちろんのこと、諸藩の財政も悪化し、軒並み
大阪や江戸の両替商に莫大な借金をしていました。
両替商はそれら借金の金利で大儲けをして権勢を振るったのですが、
江戸幕府が倒れて明治維新を迎えると、幕府側に貸し付けていた金銭は
当然のごとく返済不能になりました。
特に江戸幕府に貸し付けていた金銭の額は膨大で、
山王寺屋もかなりの金額を貸し付けていたと思われます。
しかも山王寺屋は、新政府の母体となる薩摩藩などにはテコ入れしていませんでした
(ドラマでも惣兵衛が五代才助を無碍に扱うシーンがありました)
そのため新政府が設立した恩恵にも預かることもできずに、財政が悪化していくばかり。
そこへムチを打ったのが、新政府が明治元年におこなった銀目停止(ぎんめちょうじ)です。
当時の通貨は関東では金、関西では銀が流通していました。
それは現在でいうなれば、円とドルほどの違いがあったといいます。
それを両替して手数料をとっていたのが両替商ですが、この頃には今で言う
銀行預金の形で手形を発行していました。
大阪の両替商は銀手形を発行して庶民から預金を募って、
それを運用して利益を出していました。
そして明治維新によって銀目停止により、関西で流通していた銀を廃止して
金に統一することになりました。
しかしこの銀目停止は庶民にうまく伝わらず、銀手形が紙切れになってしまうとの噂も流れて、
パニックになり庶民は銀手形の換金に殺到します。
銀手形の引き出しにより莫大な金員を支払った両替商は、
手持ちの資金が枯渇して大打撃を受けます。
この頃の両替商は莫大な金額の債権(諸藩への貸付)を持ちながら、
現金不足に陥ったということです。
ドラマではこれらにより山王寺屋は破産、没落してしまいます。
はつや惣兵衛ら山王寺屋の眉山一家は貧民街へと落ちていきます。
山王寺屋の破産、没落に関する史実との違いは?
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ドラマでは前述した銀目停止が命取りとなって、山王寺屋は明治元年ごろに破産、
没落していくことになります。
しかし、史実の山王寺屋のモデルとなった天王寺屋は何とかこの危機を乗り越えました。
ですが、そんな天王寺屋にとどめを刺したのが明治6年(1873年)の廃藩置県による
各藩の債務の明治政府の引き受けです(廃藩置県自体は明治4年)
江戸幕府を倒した新政府も、戦費がかなりかさんだことでハッキリ言ってお金がありませんでした。
しかも廃藩置県という画期的な政策を打ち出した以上、
各藩が抱えた債務を新政府が承継することになります。
しかしお金がなかったことから、次のような施策を出しました。
1843年以前の債務は支払わない
1844年から1867年の債務は無利子で50年払い
1868から72年の債務は年利4%で25年払い
いや~これはさんざん諸藩や新政府に貸し付けをおこなってきた両替商には命取りとなる施策です。
結局、この明治新政府の出した施策により多くの両替商が破産してしまいました。
そして天王寺屋もこの時に倒産してしまいました。
ドラマでは明治維新直後に破産してしまう山王寺屋ですが、
史実では明治6年ごろに廃業となったのです。
それにしても明治政府の施策は酷いですね~やはり江戸幕府時代に
かなりの権力を持った両替商を潰しにかかったと言わざるを得ないところでしょう。
その後、日本は産業の発展などで豊かになっていきますが、
その陰で犠牲になった天王寺屋などの両替商のことはあまり知られていません。
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