あさが来た|新次郎が紡績会社社長に就任!実は大失敗をしていた!
朝ドラ『あさが来た』では、新次郎が尼崎に設立する紡績会社の発起人となり、
後にその会社の社長となることが予想されます。
生前の五代友厚が述べていた通り、当時の紡績業の業績は著しい伸びを
見せることになりますから、いいタイミングですね~
また加野屋の炭鉱事業の社長を引き受けた新次郎ですが、
五代の死を境にさらなる自覚も生まれたようですね♪
これから加野屋の中核となる事業に関わっていく新次郎ですが、
実業家としての成長も見どころです。
ところで新次郎が設立に関わっている紡績会社は、史実の尼崎紡績で
後にユニチカとなって、日本の紡績業をけん引していくことになります。
そんな大会社の設立に関与した新次郎ですが、加野屋のモデルの加島屋は
尼崎紡績を巡っては実は大失敗をしていました。
今回はこのあたりをご紹介していきます。
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新次郎が紡績会社社長に就任!実は大失敗をしていた!
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尼崎紡績は明治22年(1889年)に設立され、初代社長は新次郎のモデルの
広岡信五郎が就任しました。
以前の記事でも書きましたが、この尼崎紡績を企画したのは加島屋ではなく、
地元尼崎の実業家の企画に、信五郎らの大阪の豪商が出資したものです。
ともに出資したのは逸身銀行の福本元之助、木原銀行の木原忠兵衛、
川上銀行の川上利助といった信五郎の謡仲間です。
綿製品の需要が伸びている時代でしたので、すぐに尼崎紡績も軌道に乗ったかといえば、
そうでもありませんでした。
尼崎紡績を創業の翌年に明治23年恐慌が襲います。
これは産業革命の最中の無計画な投資等の反動のような恐慌で、
主に鉄道や紡績業を中心に直撃し、破たんや事業縮小をもたらした恐慌です。
その影響で尼崎紡績にも予定していた資本金100万円の半分の50万円しか
集まりませんでした。
そんな中、信五郎は明治24年(1891年)7月に早くも社長を辞任して、
監査役に転身しています。
なぜ信五郎が社長を辞任したかといえば、加島屋が追加資本の拠出を嫌がったことが
理由だとする研究者の指摘もあります。
要は加島屋は尼崎紡績は人の話に乗ったものですし、紡績業は危険と判断したと思われます。
そのため以降は持ち株を増やさずに、明治35年(1902年)には十大株主からも消えて、
ひっそりと尼崎紡績の経営から手を引くことになります。
これは非常にもったいないことですね~
その後尼崎紡績は日露戦争などもあり、急激な成長を遂げて一大企業となりますから、
加島屋は大きな利益を逃がしたことになりました。
ちなみに同じ出資者だった木原と福本は尼崎紡績に踏みとどまります。
なのでドラマでも、山屋さんとか祇園屋さんなどは紡績会社で
大儲けするかもしれません。
もちろんこのような経営判断は、信五郎の専断ではなく広岡浅子も関わっている
でしょうから、大物実業家の浅子も痛恨の大失敗を犯したということです。
しかし浅子や加島屋の大失敗はこれだけじゃありませんでした。
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明治40年(1907年)に設立された奈良と大阪を結ぶ鉄道会社・大阪電気軌道にも
加島屋は出資して、浅子の娘婿の広岡恵三が初代社長に就任します。
ところが生駒山のトンネル工事が難航し、リスクを察知した浅子の指示により
大正元年(1912年)に恵三を社長から辞任させるなど、
大阪電気軌道の事業から手を引きます。
主要な出資者である広岡家や加島銀行を失い、その後に落盤事故が起こったりするなど、
大阪電気軌道は破たん寸前まで追いやられますが、トンネル完成後は高速鉄道として発展します。
この大阪電気軌道こそ、現在でも日本最大規模の私鉄の近畿日本鉄道(近鉄)です。
広岡家は大同生命こそ大企業に育て上げますが、ユニチカと近鉄といった
大きな魚を逸しています。
とは言え、当時は百戦錬磨の実業家だった広岡浅子がそれなりに考えて出した結論ですから、
それだけ商いは難しいということですね。
というわけで、ドラマでも新次郎は紡績会社の立ち上げに関与しますが、
その後はどのように描かれるのか注目したいところです。
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