あさが来た|日の出女子大のモデル日本女子大学校の設立は奇跡だった

 

朝ドラ『あさが来た』では、あさはアメリカ帰りの元教師の成澤泉(瀬戸康史)

とともに日本初の女子大・日の出女子大学を設立することになります。

 

女学校でも師範学校でもなく、女子を男子と同じように教育して、

一人前の社会人として教育するこの女子大の企画は非常に斬新で画期的でした。

 

日の出女子大の設立は、日本の女子教育の向上に大きな貢献を果たすことになります。

 

この日の出女子大のモデルは、成瀬仁蔵が広岡浅子とともに設立した

日本女子大学校(現日本女子大学)です。

 

現在では言わずと知れた名門女子大で、これまでも各界に多くの卒業生を

輩出してきました。

 

そんな日本女子大学校の設立ですが、これがかなりの困難を極めて、

まさに奇跡的なことだったのです!

 

女子大メンバー

(日本女子大学校の設立評議委員たち)

左から2番目が成瀬、4番目が浅子、

一番右が西園寺公望、右から3番目が大隈重信

 

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日の出女子大のモデル日本女子大学校の設立は奇跡だった!

 

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明治27年(1894年)に二度目のアメリカ留学から帰国した成瀬仁蔵は、

二年後の明治29年に日本における女子高等教育機関の必要性を説いた著書

「女子教育」を出版します。

 

それと並行してまずは自身が校長を務める大阪の梅花女学校を改革し、

女子高等教育構想を具現化しようとしますが、校内の強い反発で断念し

最後はその職も辞しています。

 

そこで成瀬は大阪に女子大を設立する構想を考え、「女子教育」を携えて、

その協力者を募るため、有力者を次々に訪問します。

 

しかし当時の成瀬は情熱はありますが、お金がない状態です。

 

汚い着物姿でまさに貧乏な書生上がりといった風体で、しかも大学設立のための費用は

30万円(現在で約11億円)という巨額の資金集めをしようとしていたことから、

「山師」などと呼ばれて当初はまったく相手にされませんでした。

 

しかし成瀬は諦めませんでした。

 

広岡浅子と会ったのもこの頃で、浅子も最初は相手にしませんでしたが、

成瀬が置いていった「女子教育」に感銘して、協力を約束します。

 

大阪の実業界でも既にその名が知られていた浅子の協力は大きかったようで、

その後成瀬は東京へ行き、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信、渋沢栄一、板垣退助、

山県有朋などの政財界の有力者を説得して協力を取り付けます。

 

その結果、明治31年(1898年)に日本女子大学校設立の事務所が開かれるまでに

至ります。

 

しかし事はそううまくは運びませんでした。

 

日清戦争後の不景気が日本を襲い、出資者が思うように集まらなくなったのです。

 

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しかも当時は女子に教育などは「有害無益」とも考えられていた時代なので、

なおさらですよね。

 

そんな中、物を言ったのが浅子と土倉庄三郎(ドラマの工藤徳右衛門のモデル)の

寄付金の「返金保証」です。

 

特に土倉は日本でも有数の資産家だったので、万が一女子大が設立できなかった時は

出資者に返金を保証したことは注目され、次々と寄付金が集まるようになりました。

 

その結果、明治32年(1899年)には住友家や鴻池家、岩崎家、古河家などの財閥からも

出資を取り付けることになります。

 

しかし今度は大学の所在地を大阪にするか、東京にするかという問題が発生して

成瀬は頭を悩ませます。

 

もちろん東京にした場合にはより費用もかかりますから、東京女学館との合併案なども

提案されました。

 

しかしそんな悩みを解決したのが、浅子の甥の三井高景(ドラマの今井忠嗣のモデル)

です。

 

高景は目白台の5500坪の土地と5万円もの大金を寄付し、

これにより女子大の設立も大きく前進しました。

 

そして晴れて明治34年(1901年)4月に、日本女子大学校は開学するに至りました。

 

貧乏でツテも何もない状態だった成瀬が わずか7年間で日本初の女子大学校を

開学するとは誰も思いませんでしたし、まさに奇跡としか言いようがありません。

 

しかしそんなウルトラCのようなことを成し遂げた成瀬ですが、

開学までに愛妻の服部満寿枝を亡くしていますし、かなりの困難を極めたことは

容易に想像がつきますね。

 

日本女子大学校の設立は、まさに成瀬の不屈の信念がなさしめた偉業

と言っても言い過ぎではないのです!

 

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