あさが来た|成澤泉が勤務した女学校のモデルは?実はクビだった?
朝ドラ『あさが来た』では、成澤泉があさのもとを訪れ、自身の理想とする
女子教育論をあさにぶつけました。
あさも成澤の原稿を読んで感涙し、ふたりは当時としては誰も考えなかった
女子大学校の設立に動き出します。
ところで気になるのが成澤の現況です。
職業も無職で妻とも離婚し、生活にも困窮していることが窺えるような
貧相な風体です。
ドラマでも3日間なにも食べていなかったことから、加野銀行の応接室で
倒れてしまいましたよね?
ですが成澤は、元は女学校の教師をしていたことが判明しました。
成澤が教鞭をとっていた女学校のモデルはどこなのでしょうか?
そしてなぜ教職を辞めたのでしょうか?
成澤のモデルとなっている成瀬仁蔵からひも解いてみました。
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成澤泉が勤務した女学校のモデルは?なぜ教師を辞めた?
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成澤泉のモデルとなっている成瀬仁蔵ですが、複数の女学校や男子校で
教鞭をとっていますが、ドラマで勤務した女学校のモデルは大阪の梅花女学校です。
梅花女学校は後に学制改革により梅花中学・梅花高校に変更され、
現在も大阪に存在します。
大阪ではもっとも歴史ある女子高として知られており、女優の由美かおるさんや
シンガーソングライターの植村花菜さんらも卒業生です。
成瀬はこの梅花女学校の設立に関わり、明治12年(1879年)の開学時には
主任教師を務めました。
その後、新潟女学校の校長をなどを務めた後に、アメリカに留学した成瀬ですが、
明治27年(1894年)に帰国した後は梅花女学校の校長を務めます。
このように梅花女学校とは非常に縁の深かった成瀬ですが、その後に
職を辞することになります。
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成瀬が梅花女学校を辞めた原因は、成瀬が進めた梅花女学校の改革に
教職員や保護者らが猛反発したことです。
最終的には日本初の女子の高等教育機関の日本女子大学を開学させる成瀬ですが、
実は当初は校長を務める梅花女学校を改革して女子の高等教育機関にしようとしたのです。
ところがドラマでも描かれた成瀬の画期的な女子教育論は、
「良妻賢母思想」が支配的だった当時の世の中にはまったく受け入れられませんでした。
その結果、成瀬は梅花女学校を去ることになりますが、実質的には辞めさせられた
(クビ)と言ってもいいのかもしれません。
ところで成瀬に関してはけっこうもめ事が多いです。
かつて設立に関与した新潟の男子中等教育機関の北越学館では、当時の教頭だった
かの内村鑑三と激しく対立し、結果的には内村を排斥しました。
恐らく成瀬は非常に情熱的な人物だったようですね。その情熱が時として、
激しい対立を招いてしまったのでしょう。
さらにはこのように自分の理想の実現のためには争いすら辞さないという
成瀬の姿勢こそが日本女子大学校の設立という偉業を成し遂げたと考えます。
そもそも成瀬は理想こそ高いものの、満足な資金もなく、人脈もなかったことから、
当初は日本女子大学校の設立はとうてい実現できないものと思われていました。
しかしそんな状況にありながらも、決して諦めずに熱心に自分の理想を説き、
賛同者を増やしていった成瀬の精神は、広岡浅子のスピリットに勝るとも
劣らないものと思うばかりです。
そのあたりも浅子が成瀬を支援した理由のひとつだと思えてなりません。
このような経緯で梅花女学校を去った成瀬ですが、広岡浅子と出会ったのは
この梅花女学校を辞める前後のようです。
さらに当時の成瀬はドラマと同じように、非常に貧しく、「味噌漬け」のような
汚れた着物をまとっていたと記録にあります。
ちなみにドラマでは加野銀行で倒れた成澤が教師であったことは、
元教え子の女子行員中川ハトが気付きます。
しかし実際には土倉庄三郎の娘が梅花女学校に通っていたことから、
むしろ元教え子はそのモデルの工藤サカエのほうでしょう。
いずれにしても、無職でお金もない成澤泉が、その数年後に
日本初の女子大学校を設立するという奇跡を起こします。
乞うご期待を!
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