あさが来た|今井忠嗣の最後と死因!あさよりも先に逝ってしまう!

 

朝ドラ『あさが来た』で、実際に残した功績は大きいのに

なぜかあまり登場ないのが、あさの弟の今井忠嗣(興津正太郎)です。

 

忠嗣のモデルとなっている三井高景は、史実の広岡浅子が

日本女子大学校を設立した際に、土地や多額の資金提供をして

もっともこれに貢献した人物です。

 

ところがドラマでは女子大学校の土地の提供は忠嗣の父の忠興の功績として

描かれるようなので、ちょっと忠嗣はかわいそうですね~

 

その他にも三井鉱山の社長を務め三井財閥の中核に位置した高景は、

幾度となく浅子をサポートしています。

 

ドラマの編成上やむを得ないことなのでしょうが、個人的には

忠嗣にもう少しスポットライトを当ててほしいところです。

 

そんな忠嗣ですが、実はあさよりも先に逝ってしまうことになりそうです。

 

今回は今井忠嗣の最後や死因を、モデルの高景からひも解いていきます。

 

コンテンツ

今井忠嗣の最後と死因!あさよりも先に逝ってしまう!

 

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他の記事でも書きましたが、今井忠興のモデルとなっている三井高景は、

広岡浅子の弟ではなく甥にあたる人物。

 

しかし年もひとつ違いで子どもの頃から姉弟のように育てられたことから、

非常に仲がよかったことでも知られています。

 

そのため成人後も浅子は高景を、「愛弟」や「三郎助」(高景の幼名)

と呼んでいました。

 

また高景の先妻が病死した後に、浅子が後妻となる寿天子を紹介するなど、

生涯にわたって高景と浅子は家族ぐるみで付き合いがありました。

 

そんな高景が亡くなってしまうのは、明治45年(1912年)です。

 

死因の詳細は不明ですが、高景は前年から体調を崩し気味だったといいますから、

何らかの病気だったようですね。

 

その数年前に浅子は重度の乳がんを患って死にそうになりますが、

高景のほうが先に逝ってしまうというのはちょっと皮肉ですね…

 

高景は65歳で亡くなりますが、浅子が亡くなったのは

大正8年(1919年)ですから、7年も早く逝ってしまうことになります。

 

浅子と高景は亡くなる前年に、高景の軽井沢の別荘で会っています。

 

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この別荘は「三郎助別荘」と呼ばれ、現在でも残っており、

軽井沢でも現存最古の洋風別荘とされています。

 

浅子一家もこの別荘には度々訪れているとのことですから、

ふたりの仲の良さを表していますね~

 

そして浅子は高景の死を事のほか悲しんだといいます。

 

高景が多大な貢献をした日本女子大学校でも、高景の追悼会がおこなわれましたが、

そこでも浅子は高景を惜しむ気持ちを語っています。

 

ただし高景が亡くなった後も、未亡人の寿天子と浅子の交流は続きました。

 

このふたりも気が合ったようで、寿天子は浅子が主宰した御殿場の勉強会

(夏期講習会)にも参加して、参加者に料理を教えたりしています。

 

モデルとなっている三井高景の最後に鑑みれば、ドラマの今井忠嗣も

あさよりも先に逝ってしまうようですね~

 

寿天子にあたる人物は登場するのでしょうか?

 

※追記

さっそく忠嗣の妻のとわさんがドラマに登場しました!

 

個人的にちょっと残念なのが、ドラマでの忠嗣の役割がそれほど大きくない

ことです。

 

史実の三井高景が日本女子大学校の設立の際になした多大な功績なども、

ドラマでは主に父親の今井忠興の功績として描かれていました。

 

浅子と非常に仲が良く、事あるごとに浅子に協力を申し出た高景ですから、

ドラマの忠嗣にももう少しスポットを当ててやってもいいかなぁ~

と強く思います。

 

今後の忠嗣に期待しましょう!!

 

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