あさが来た|千代と啓介の子供は多津子!モデルや将来はどうなるの?
朝ドラ『あさが来た』では、かつてあさが入院していた病院で
運命的な出会いとなった千代と東柳啓介ですが、紆余曲折ありながらも
結婚することになります。
いったんは政府の役人になるべく縁談を辞退した啓介ですが、
新次郎やよのの説得に翻意して、白岡家に婿養子に入ることになりました。
残念ながらよのは千代の花嫁姿を見ることは叶いませんでしたが、
何よりも千代の幸せを願っていたよのですから、天国でも喜んでいるはずです。
そして明治34年(1901年)無事に結ばれることになった千代と啓介でしたが、
その翌年に早くも長女の多津子が産まれることになります。
※追記
その後、千代と啓介は次女の恵津子、三女の佐津子を授かることになります
(三姉妹はすべて年子)
あさや新次郎は多津子の誕生により、お婆ちゃんとお爺ちゃんになってしまう
わけですが、今回はこのあたりをご紹介します。
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千代と啓介の子供は多津子!モデルや将来はどうなるの?
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千代と啓介の長女の命名は新次郎がおこない、
「多くの恵みの雨が降るように」と多津子と名付けます。
孫が産まれると新次郎は多津子にべったりとなってしまうようです。
そういえば新次郎の母のよのも、千代が生れた後にはとても可愛がっていましたね~
やはり新次郎もよのの息子ですね!
ところで千代と啓介の娘の多津子ですが、史実の広岡恵三と亀子の長女の
多恵子がモデルとなっています。
多恵子はドラマの多津子と同じく、明治35年(1902年)生まれ。
両親や祖父母の広岡浅子と信五郎の寵愛を受けて、すくすくと育ちます。
その後、現在でも東京の白金にある聖心女学院を卒業し、
後に神田盾夫のもとに嫁ぐことになります。
この神田盾夫は男爵で貴族院議員も務めた英語学者の
神田乃武(かんだ ないぶ)の四男です。
(神田乃武)
ちなみに乃武は学習院大学や東京高等商業学校(現一橋大学)などで
教鞭をとり、東京外国語学校(現東京外語大)の校長を務めた人物です。
現在でも発売されているロングセラーのコンサイス英和辞典や
三省堂の新約英和辞典の著者としても知られています。
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多恵子の夫となる盾夫も東京帝国大学の英文科に入学しますが、
京都帝国大学の言語科に転籍して卒業します。
そしてイギリスのオックスフォード大学やドイツのハイデルベルグ大学に留学し、
西洋古典学を学びました。
帰国後は言語学者、聖書学者として同志社大学や東京大学、
国際基督教大学などで教鞭をとりました。
多恵子と盾夫の子供や死没年などは不明ですが、盾夫は多恵子よりも5歳年上で
亡くなったのが1986年(昭和61年)ですから、89歳の長寿でした。
いや~多恵子もさすが広岡家の娘ですね~男爵の家柄で後に言語学者として
名をはせる人物と結婚しています。
両親の恵三と亀子がこの結婚を準備したと思われますが、
こんな立派な旦那さんに嫁ぎましたからさぞ安心だったでしょうね~
ドラマでは多恵子がモデルとなっている多津子は、
幼少期のほんの少ししか登場しませんが多恵子のように
立派な家に嫁いだことが推測されます。
なお、リアルでは多恵子が生まれた2年後に、広岡浅子の夫の
信五郎が亡くなることになります。
なのでドラマの多津子を可愛がる新次郎にも、
それほど長い時間が残されてはいないと考えます。
子煩悩な新次郎ですから、千代の娘の多津子にもたくさんの愛情を
注ぐことでしょう。
その喜びようは今からでも十分に想像することができますよね♪
また多津子が誕生する頃には実業界を引退していますから、
晩年の新次郎にとっての生きがいは、多津子になると思います。
これまで妻のあさはもちろんのこと、千代や甥の藍之助にも分け隔てなく
大いに愛情を注いできた新次郎のことです。
初孫の多津子に対する新次郎の喜びようや愛情を注ぐさまなどは、
ドラマの見どころになりそうですね♪
ちなみに広岡恵三と亀子夫婦は多恵子のほか、一男四女の5人の子宝に恵まれます。
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