とと姉ちゃん|当時の深川木場はどんなところだった?材木の街

 

朝ドラ『とと姉ちゃん』は、舞台は静岡県浜松市から東京の

深川・木場に移りました。

 

常子ら小橋家の一家は、君子の母親の青柳滝子にお世話になることになりました。

 

そして滝子の経営する青柳商店は材木問屋。

 

当時の深川・木場はこのような材木問屋が数多く立ち並び、とても活気のある街

だったのです。

 

深川・木場の歴史をご紹介していきます。

 

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当時の深川木場はどんなところだった? 材木の街

 

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「木場」という名称はもともと木材の集積場を指し、その起源は

慶長9年(1604年)の江戸城改修にあります。

 

江戸城の改修には大量の木材を必要としたことから、各地から船で木材が運ばれ、

その集積場となったのが隅田川沿岸でした。

 

ただし、その頃の木場は現在の深川・木場と呼ばれる場所ではなく、

日本橋の周辺にありました。

 

しかし明歴の大火(1657年)により当時の木場は大きなダメージを受け、

その後は深川材木町を経て、現在の深川木場に移転することになります。

 

当時は木造建築が中心でしたし、江戸は大火が多いことで知られていましたから、

その都度大量の木材が各地から運び込まれ木場は大いに栄えました。

 

また現在の東京都杉並区もその名の通り、杉の産地として知られていましたから、

木材が神田川などを経て木場に持ち込まれました。

 

成金で知られる紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門らは材木で大儲けをしましたから、

当時の木場がどれだけ賑わっていたかということも想像がつくでしょう。

 

明治に入っても明治政府は急速な近代化を図りましたから、木材の需要は

衰えませんでした。

 

さらに日清戦争や日露戦争といった大戦では、造船用の木材の需要が

飛躍的に増えたため、木場の好景気は続きました。

 

しかしドラマでも描写があったように大正12年(1923年)の関東大震災

深川・木場は大きなダメージを受けます。

 

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震災では本所区や日本橋区、浅草区などと並び深川区は甚大な被害が生じて、

市街地の9割が焼失しました。

 

深川 震災

(関東大震災後の深川区)

 

まさに焼け野原となってしまった木場でしたが、復興が政府主導でおこなわれ

多額の資金も投入されたことから、深川・木場も6年あまりで奇跡的に蘇ること

となります。

 

見事に大震災から復興した木場の街でしたが、その後は過酷な運命

を辿ることになります。

 

昭和4年(1929年)に発生した未曾有の大恐慌である昭和恐慌で、

木材の需要も低迷し不況のあおりが木場の街にも直撃します。

 

昭和12年(1937年)に開戦した日中戦争では一時的に大戦景気に沸きますが、

戦況は泥沼化して、太平洋戦争へと突入します。

 

そして昭和17年(1942年)に木材の配給制のための統制機関・大東京木材統制

が設立されると、木材も個々の取引は禁じられたことから、木場は街の機能を

完全に失ってしまいます。

 

さらには昭和20年(1945年)の東京大空襲の被害を受けて、深川・木場地区は

全壊とも言えるような大ダメージを受けることになります。

 

そんな木場が復興したのは戦後ですが、沖合の埋め立てが進み、

昭和44年(1969年)に集積場は現在の新木場に移転しています。

 

このような歴史を辿る深川・木場ですが、ドラマの舞台となっているのは

昭和10年(1935年)ですから、昭和恐慌の不景気からようやく抜け出して、

日中戦争序盤の好景気へと向かうころです。

 

なのでドラマでも深川・木場が賑わう様子なども、存分に描かれると思います。

 

そのため現在では東京都の無形文化財に指定されている

「木場の角乗」なども披露されるかもしれませんね。

 

(木場の角乗の動画)

 

その後の戦局の悪化により大きなダメージを受けてしまう木場の街ですが、

その盛衰にも注目したいですね。

 

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