あさが来た|新次郎とあさのモデル広岡信五郎と浅子の子供は?
朝ドラ『あさが来た』では、あさ(波瑠)は加野屋の商売で多忙な日々を送り、
なかなか新次郎(玉木宏)の面倒を見ることができません。
それどころか子宝にも恵まれず、義理の父母の正吉(近藤正臣)や
よの(風吹ジュン)をやきもきさせてしまいます。
そんな中あさの姉のはつ(宮崎あおい)はひょんなことから加野屋で
子どもを産むことになり、よのはますます新次郎の子どもを期待するようになります。
この時代の妻の責務は、何といっても跡継ぎになる男児を産むことです。
子どもが生れなくて離縁されたり、妾を囲ったりすることも少なくなかったことから、
当時の妻となる女性は大変なプレッシャーだったことでしょう。
ところでドラマの白岡新次郎とあさの夫婦のモデルとなった、
広岡信五郎と浅子の夫婦の子どもはどうだったのでしょうか?
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広岡信五郎と浅子の子どもは?
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信五郎と浅子の子どもが生れたのは、1876年(明治9年)のこと。
亀子という女児を浅子は産みました。
当時の浅子は27歳。17歳で広岡家・加島屋に嫁いでいますから、
なかなか子宝に授からなかったのですね。
そのため、浅子が妊娠したことを知った信五郎の喜びようはなかった
といいます。
浅子の子どもは肝心の跡継ぎとなる男児ではなかったことから、
この後にも子供を産むのかと思いきや、浅子が産んだ子どもは
亀子ただひとりです。
浅子が加島屋の経営の多くを任されていたことや亀子のお産が難産だったことから、
浅子は第2子を産むことを諦めてしまいました。
その代わり浅子の三井時代からのお付きの女中の小藤(ムメ)が信五郎の妾になり、
男児を含む4人の子どもを産むことになります(詳細は別の機会に)
信五郎と浅子の一粒種の亀子のプロフィールは、次のとおりです。
広岡亀子
1876年-1973年
京都府高等女学校卒
幼年期は多忙な浅子よりも、面倒を見ていた小藤になついていたそうです。
高等女学校卒業後に一柳恵三と結婚(恵三は広岡家の婿養子になる)
浅子よりも小藤に育てられたせいか、性格は浅子と正反対で
非常に家庭的だったそうです。
しかし母系のタフさを受け継いだようで、100歳近くまで長生きしました。
子孫も健在とのこと。
亡くなったのは1973年(昭和48年)ですから、明治の世に生まれながらも
カラーテレビや全自動洗濯機も知っていたのですね~
息子の喜一さんも浅子が設立した大同生命の取締役を務めたということから、
優秀だったのですね。
亀子は浅子とは違い「夫を支え続けた良き母」でしたので、
広岡家の歴史の表舞台に登場することは少ないのですが、
夫となる恵三がすごい人でした。
信五郎と浅子の義理の息子がすごかった!
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信五郎と浅子の義理の息子になった一柳恵三は、東京帝国大学
(現在の東京大学)卒業のエリートでした。
実の父親の末徳は旧播磨小野藩主で貴族院議員で子爵。
家柄も素晴らしかったのですが、実際に仕事ができた人で加島銀行の頭取や
大同生命の2代目の社長などを歴任しています。
広岡恵三(大同生命HPより出典)
特に大同生命の社長は33年もの長期にわたって務め、
浅子が設立したこの会社を発展させたのは、この恵三でした。
大同生命は現在も続く大きな企業ですが、その基礎を作り上げたのが
2代目社長の広岡恵三だったのです。
浅子が立ち上げた加島銀行は昭和恐慌で経営破たん、
手掛けた潤野炭鉱も人手に渡ってしまいました。
そのため浅子に由来する会社で、現存しているのは大同生命のみです。
(信五郎が関わったユニチカも現存していますが)
広岡家は大同生命の経営から離れてはいますが、この会社が明治から平成の世まで
脈々と続いているのは、信五郎と浅子の義理の息子・恵三の功績が大きかったのです。
まさに浅子や当時の共同経営者だった正秋(栄三郎のモデル)の遺志を継いだのが、
この恵三です。
その後、大同生命の経営にあたった際に、恵三は攻めの経営で多くの顧客を獲得する
ことになりますが、このようなところにも浅子のスピリッツを感じます!
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