あさが来た|新次郎のモデル広岡信五郎の側室小藤の子供!ふゆは?
朝ドラ『あさが来た』では、いよいよ新次郎の側室・妾問題が
勃発することになります。
あさが商売に多忙で新次郎の面倒を十分に見れないばかりか、
子宝にも恵まれないことが原因ですが、特に新次郎の母親であさの姑のよのが
このような状態を憂いています。
他の記事でも書きましたが、新次郎の側室候補の一番手だった三味線の師匠の
美和は囲われて生きるつもりはありませんでした。
そのためよのは、山王寺屋から加野屋に移ってきた女中のふゆに目をつけることになります。
このあたりがどうなるかは、ドラマの進行を見てみないとわからないことですが、
かなりデリケートな問題ですよね。
史実に忠実にドラマを再現するならば、あさもふゆに頼み込んで
新次郎の側室になってもらうという流れですが、
これが視聴者に受け入れられるかは非常に微妙です。
ところで新次郎のモデルとなった広岡信五郎と側室の小藤の間の子どもは、
どうなったのでしょうか?
コンテンツ
広岡信五郎と小藤の子供は?
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小藤(本名はムメ)はあさのモデルとなった広岡浅子のお付きの女中で、
三井家からの縁で加島屋に入りました。
年齢は浅子より小藤が5つ年下。ドラマではふゆと同世代ということになります。
浅子は信五郎の子ども・亀子を出産しますが、世継ぎとなる男児でないことや
難産だったことから、第2子の出産を諦めます。
そして小藤に信五郎の側室・妾になるように頼み、男児が生まれるまで
小藤は信五郎の子どもを4人も出産します。
(晩年の小藤)
長女:蔦子
次女:極子
三女:秋子
長男:松三郎(明治21年生)
小藤は浅子に代わって信五郎の子供を産みますが、なかなか男児が生まれずに、
ようやく4人目が跡取りとなる男児でした。
この信五郎と小藤の4人の子供たちですが、残念ながら女児3人のその後は不明です。
※追記
長女の蔦子さんのご子孫の方から貴重な情報をいただきました
詳細は最下部のコメント欄をご覧ください。
ただし、資産家の家の娘たちですから病気などで早逝しなかった限り、
普通に嫁いだと思われます。
しかし長男の松三郎は、成人後に活躍することになります。
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跡取り息子となった松三郎は、義理の兄弟の広岡恵三(浅子の実子・亀子の婿養子)
とともに、広岡家のビジネスに携わります。
松三郎は大正元年に現在の慶応大学を卒業後、横浜正金銀行に就職して
サンフランシスコ支店勤務などを経験。
昭和10年に大同生命に監査役として入社。
昭和22年には同社の4代目の社長に就任しています。
その後は同社の相談役や阪急不動産の監査役を歴任しています。
松三郎もビジネスマンとしてはなかなか立派な経歴ですね~
しっかりと浅子や信五郎の遺志を継いだようです。
広岡家は昭和初期の昭和恐慌でかなりの痛手を被り、
加島銀行などを手放しています。
松三郎はその頃は広岡家のビジネスに関わっていませんが、
その後に恵三らと大同生命のかじ取りに取り組んだようですね。
前記の通り『あさが来た』では、ふゆが小藤の役割を果たすかどうかは
微妙な状況です。
なので、松三郎にあたる人物がドラマ内に登場するかどうかも不明。
このあたりはドラマの進行を見守りたいところですね♪
個人的にはふゆが新次郎の妾や側室になる可能性は低いものと思います。
そのため、史実の広岡信五郎と小藤の子供たちがドラマに出るかといえば、
否定的に考えてしまいます。
いずれにせよ製作陣がどのような判断を下すのか、見守りたいですね。
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広岡信五郎さんと小藤さんとのお子さんのうち、女児3人のその後について、蔦子さんについての情報です。
広岡篤子(ひろおか・つたこ)さんは、松井萬緑(まつい・まんりょく)さんと結婚します。
松井萬緑さんは、群馬県の出身で、渋沢栄一さんの書生をしていました。
渋沢栄一さんの経済的援助により東京帝国大学を卒業し、渋沢栄一さんの紹介により、加島銀行に就職します。みるみる出世し(加島銀行の頭取)広岡家に認められ、広岡信五郎さんと小藤さんとの娘、蔦子さんと結婚します。
しかし、昭和恐慌にともなう加島銀行の倒産により、松井家は巨額の負債を抱えました。萬緑さんは破産を避け(負債の免責を受け入れず)戦前・戦中・戦後を通して借金を返済し続け、ついに自分の資産総額で返せる程度まで借金が減った時、すべての家屋敷を売り払い全負債を完済し、自身はアパートに引っ越して慎ましやかな一生を送られたそうです。
松井萬緑さんと蔦子さんとの間に生まれたお子さんの中に、真寿美さんという名の人がいます。松井真寿美さんは、財閥一族の令嬢として生を受けました。後半生は、ごく普通の一般庶民として幸せに生涯を全うされました。真寿美さんは大阪府枚方市在住でしたが、お墓は、ご本人の意志により、富士山の麓御殿場に建てられました。御殿場にはかつて広岡家の別荘がありました。たぶん少女時代の思い出から、この地を永眠の場所に選ばれたと推察します。
この松井真寿美さんが、私の奥さんのお祖母ちゃんです。
ビル様
とても貴重な情報ありがとうございました。
やはり昭和恐慌による加島銀行の倒産は方々に暗い影を落としていったのですね。
しかし松井萬緑さんは、昭和初期に生じた負債を巨額にも関わらず、戦後にまで返済し続けたのですね。
さすがは広岡浅子や信五郎、恵三さんたちに認められた方ですね。その男気や責任感の強さには文章を読んでいるだけでも頭が下がる想いです。
決して表に出ない昭和史の一端に触れることができただけでも、このブログを開設してよかったと感じ入るばかりです。
ありがとうございました!!
追加
松井萬緑さんは、加島銀行が破綻した後は、その後処理(あとしょり)を任され、大同生命の一室を借りてその仕事を続け、すべての処理が終わった頃お亡くなりになったとのことです。
余談レベルの話ですが・・・
広岡恵三さんについて。
私の奥さんのお母さんが小さかった頃、広岡恵三さんはまだご存命で(お年的にはとっくにおじいさんだったと思うのですが)、背が高くハンサムなうえ着ている物がおしゃれ、身のこなしがまるでヨーロッパの紳士みたいだったそうです。子ども心に「かっこいいなあ」と、あこがれたそうです。
ビル様
度々ありがとうございます。
おばあさまは、あの広岡恵三さんまでご存知でありましたか?
恵三さんは切れ者であると同時に写真などで見る限り、かなりのオシャレのようでしたが、
やはり紳士だったのですね♪
ご子孫ならではの貴重な情報感謝いたします!!