とと姉ちゃん|鞠子が食糧難で栄養失調に!大橋三姉妹の食料事情は?
朝ドラ『とと姉ちゃん』では、戦局の悪化により食糧事情が悪化
していきます。
既に食糧のすべては配給制になっていましたが、昭和20年(1945年)の
太平洋戦争末期になると配給も不十分となり、多くの国民が飢えることになります。
小橋家も例外ではなく、次女の鞠子が栄養失調から体調を崩すことに
なってしまいます。
小橋家の三姉妹では、もっとも体が弱そうなのが次女の鞠子です。
常子や美子は何とかなりそうですが(すみません)、鞠子に関しては心配ですね~
当時の食糧事情や小橋三姉妹のモデルの大橋三姉妹はどうだったのかを
ご紹介していきます。
(配給に並ぶ人たち)
コンテンツ
鞠子が食糧難で栄養失調に!
スポンサードリンク
小橋家の次女鞠子が栄養失調で体調を崩し、倒れてしまうのは
終戦間際の昭和20年(1945年)7月です。
野坂昭如さんの「火垂るの墓」などを読めばお分りでしょうが、
当時の食糧事情はそれは酷いものでした。
日中戦争の長期化、太平洋戦争の戦局の悪化などを受けて、
米が配給制になったのは昭和16年(1941年)からです。
当初は成人男性は1日あたり330gの白米が配給されましたが
(年齢や性別、職業などによって配給量は異なる)、
その後の米の枯渇によって配給量の切り下げが何度もおこなわれました。
これにさらに追い打ちをかけたのが、アメリカ軍による「飢餓作戦」です。
アメリカ軍は昭和19年末から翌20年にかけて、関門海峡や瀬戸内海の機雷による封鎖、
青函連絡船や関釜連絡船(下関-釜山間の連絡船)の撃沈などによって
食糧の首都圏や京阪地区への移流を阻止します。
これにより九州や四国、北海道や朝鮮半島といった当時の日本の食糧の供給地からの
輸送がストップしてしまい、東京や大阪の大都市圏を中心に「飢え」が庶民に襲いかかります。
既にその頃には白米や麦の配給はストップしており、配給されるのは
少量の馬鈴薯やコーリャン、でんぷんなどとなりました。
当然のことながら、その程度の食糧では足りないので、多くの人びとは
田舎に食料を買い出しに行ったりして飢えをしのぎました。
もちろん多くの人が健康状態にも異常をきたし、太平戦争末期から終戦後にかけては
栄養失調で命を落とす人も少なくありませんでした。
ちなみに毎日新聞の調査では昭和23年(1948年)の14歳の男子は、
昭和11年(1936年)に比べ、身長で6.1cm(平均身長は152.1cm)、
体重で4.7kg(平均体重は38.9kg)も小さくなってしまったことが判明しています。
戦後の食糧事情が向上しはじめるのは、昭和21年(1946年)5月に
アメリカが日本への食糧の輸出を解禁する頃ですから、
それまでは鞠子の体調が心配ですね。
大橋三姉妹の食糧事情はどうだった?
スポンサードリンク
小橋三姉妹のモデルとなった大橋三姉妹ですが、
幸いにも食糧事情は庶民よりもよかったようです。
というのも亡き父の武雄の実家の援助があったからです。
武雄は10歳の時に東京・深川の大橋家に養子に出されましたが、
実家は岐阜で米を作っていました(専業農家であったかは不明)
そのため大橋鎭子と次女の晴子は昭和19年に岐阜に赴き、武雄の実家や伯父から
それぞれリュックいっぱいのお米と持てるだけの野菜やおにぎりなどを
もらいに行っています。
当時のお米は非常に入手困難で、お金より大事なものとさえ言われていましたから、
大量のお米の援助は大きかったですね~
ちなみにこれらに関して、帰りの汽車で感動的なエピソードがあります。
帰りの汽車の中で鎭子と晴子がもらったおにぎりを食べようとしていると、
すし詰めの車内の人たちがみなそれを見ていました。
当時は白米のおにぎりなんて貴重品でしたから、みなから羨望の眼差しで
見られたのでしょう。
しかしそこで鎭子は晴子と相談して、なんと岐阜でもらってきたおにぎりを
すべて差し出して、周りの人たちに配ってしまいました。
困っている人を放っておけない鎭子でしたが、
この食糧難の時代におにぎりを配ってしまうとはすごいですね~
もらった人たちはそれはもう嬉しそうに食べたということですが、
鎭子にとって戦時中の思い出は、このおにぎりのエピソードが
真っ先に挙がったそうです。
その優しさと思いやりで多くの人びとに愛された大橋鎭子ですが、
彼女の性格がよく表れたエピソードですね♪
ドラマでは大橋三姉妹の亡き父の竹蔵の実家などは不明ですが、
ぜひとも描いてほしいエピソードですね!
毎日19:00~24:59開催!楽天スーパーDEAL6時間限定アイテムが登場!
スポンサードリンク
最近のコメント