とと姉ちゃん|常子たちがおこなう防空演習とは?当時の惨状とは?
朝ドラ『とと姉ちゃん』では太平洋戦争も末期に差しかかり、
日本にとっては泥沼の状況となります。
時は昭和19年(1944年)ですから、マリアナ沖海戦の大敗や
サイパンやグアムでも多くの日本兵が玉砕した年です。
このころになると完全に制空権をアメリカに握られて、
首都東京にもたびたびアメリカ軍の空襲がおこなわれるようになります。
特に当時の日本(現在も)は欧米などとは異なり、ほとんどが木造住宅で
しかも過密していることから、アメリカは焼夷弾で焼き尽くす作戦に出ます。
そのため昭和19年頃からは、B-29爆撃機による焼夷弾での無差別爆撃(空襲)
によって日本各地で大きな被害が出てしまいます。
それに対する対策として、当時の日本各地でおこなわれたのが防空演習です。
この防空演習とはどのようなものだったのでしょうか?
当時の惨状などと併せてご紹介します。
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常子たちがおこなう防空演習とは?
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防空演習や防空訓練は日中戦争が開戦した昭和12年(1937年)あたりから
おこなわれるようになり、太平洋戦争に突入してからは日常的におこなわれていた
対空襲のための訓練です。
防空演習は主に隣組や学校単位でおこなわれ、内容としては爆風の避け方や焼夷弾の処理、
その消火活動、防毒マスクの扱い方などでした。
この頃には公の場や個人宅の庭などにも防空壕が数多く作られていましたので、
それを使った訓練も数多くおこなわれました。
さらには服装も防空用のものに衣替えしており、防空頭巾にもんぺ、
ズックや地下足袋など動きやすく目立たないものを着用し、
胸には血液型が記載された名札を縫い付けるのが一般的でした。
とは言え、このような防空演習や防空訓練が実際に役立ったかと言えば
かなり疑問です。
当時は既に人的、物的な側面から日本の敗戦は目に見えており、
首都圏でも空襲対策として高射砲などが設置されていましたが、
それらも性能不足や砲弾不足で迎撃は困難な状態でした。
さらにはアメリカ軍のB-29が投下した焼夷弾はあまりにも大量だったことから、
地上レベルでも防空演習での日ごろの訓練もさほど役に立ちませんでした。
それどころか消火活動や救助活動をおこなっているうちに逃げ遅れるなどして、
むしろ犠牲者を増やしてしまったとも言われています。
このあたりは竹やり訓練などと同じように、圧倒的なアメリカ軍の軍事力の前には
もはや無意味に近いものだったようです。
アメリカ軍の空襲による当時の惨状とは?
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太平洋戦争末期のアメリカ軍の無差別爆撃(空襲)による犠牲者は、
正確な数字がわからないほどの惨状です。
米軍戦略爆撃調査団によれば30万人以上の死者(広島、長崎の原爆被害は含まず)
としていますが、日本の研究機関や報道機関によれば、少ないもので20万人程度、
多いもので100万人とするものがあります。
このような数字に大きなばらつきがあるのは、当時の日本はもはや政府機関などの
統制がとれずに大混乱に陥っていたことを表していますね。
そして空襲の被害がもっとも大きかったのが、ドラマの舞台になっている
東京です。
東京では昭和20年(1945年)の東京大空襲に代表されるような大規模な空襲が
何度もおこなわれたため、およそ12万人もの尊い命が失われたと言われます。
これは史上最大の殺戮とされる広島での原爆投下の犠牲者(約26万人)の
およそ半数にも上り、原爆投下の犠牲者を除けば沖縄戦の犠牲者(約12万人)と並び
突出した数字です。
この数字を見ればまさに当時の東京は、沖縄と変わらないほどの
地獄絵図のような状態だったのです。
ドラマでも戦時下の東京での常子たち小橋一家の日常が描かれるはずです。
このあたりは実際にどのように描かれるかは不明ですが、
実際には当時の東京の人びとは毎日が命がけの極限状態に置かれていたのです。
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