とと姉ちゃん|平塚らいてうの家族は?夫や子供&子孫!
朝ドラ『とと姉ちゃん』では、平塚らいてう(真野響子)が登場します。
らいてうと言えば前回の朝ドラ「あさが来た」でも登場し、
女学生時代に白岡あさに噛みついた姿が描かれました。
その後は女性解放運動の象徴的な存在として活躍し、
25歳の時に出版した雑誌「青鞜」の
「元始、女性は太陽であった」の表題は余りにも有名ですね♪
一方で当時の良妻賢母の風潮をあざけるかのような自由奔放な振る舞いでも知られ、
21歳の時に起こした心中未遂事件(塩原事件)は当時としては
大きなスキャンダルとなり、ダーティーなイメージさえついてしまいました。
しかしそんなハンデをもとろともせずに、らいていは戦後反戦運動や
平和運動の象徴的な存在として再びアクティブに活動をはじめます。
今回のドラマで登場するのも昭和25年(1950年)ごろですから、
ちょうどそのころですね。
そんならいてうの私生活はどうだったのでしょうか?
夫や子供、そして子孫を紹介します。
コンテンツ
平塚らいてうの家族は? 夫や子供&子孫!
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平塚らいてうは25歳の時に青鞜社を立ち上げますが、
その翌年の大正元年(1912年)夏に神奈川県の茅ケ崎にあった
サナトリウム(結核治療所)で、画家志望だった5歳年下の
奥村博史と出会います。
(らいてうと奥村)
サナトリウムには軽度の結核で入院していた親友の尾竹一枝の
見舞いと看護を兼ねて行っていました。
そこに出版元の若社長の西村陽吉が奥村を連れてやってきたのです。
らいてうは奥村との出会いを自伝で「運命のであい」(原文ママ)と記すほど
衝撃的だったようで、まさに一目ぼれのようですね♪
翌年再会したふたりは恋愛関係となり、大正4年(1915年)12月に
長女の曙生(あけみ)を出産しました。
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長女の出産は難産でつわりもひどかったことから、当時連載中だった
長編小説「峠」を休載したほどです。
しかも同年の9月に奥村も結核を患っていた中での出産となりました。
そのためらいてうも奥村の看病と育児のために翌年の2月に青鞜社を離脱し
(当時30歳)、同社は勢いを失っていくことになります。
その甲斐あってか、大正6年(1917年)に奥村の結核は快癒して、
同年の9月には長男の敦史を出産します。
ところで事実上夫婦であったふたりですが、らいてうは従来の結婚制度や
家制度をよしとせずに、生涯入籍することはなく事実婚を続けました。
大正時代に事実婚ですから世間的にもかなり衝撃的だったようですが、
このあたりにも彼女の先見性が窺えますね~
ふたりの子供たちも自分が分家して戸主となった戸籍に、
私生児として入籍しています(そのため子供の姓は奥村)。
長男の敦史さんの詳細は不明ですが、2011年8月に出版された
「わたくしは永遠に失望しない~写真集平塚らいてう~人と生涯」を
監修しています。
その息子の直史さん(孫)は心理療法士となって、2011年に
「平塚らいてう~孫が語る素顔」という書籍を出版しています。
長女の曙生さんは結婚してふたりの子供を出産しています。
長男(孫)は築添正生さんで作家になりましたが、残念ながら亡くなっており、
「いまそかりし昔」という遺稿集が発売されています。
長女(孫)の築添美可さんは都立国立高校を卒業後にアングラ劇団「黄金劇場」に所属、
炎美可の芸名で日劇ミュージックホールでヌードダンサーとして活動したり、
昭和53年(1978年)にテレビドラマ「熱中時代」にも出演しました。
平塚らいてうは昭和46年(1971年)5月24日に(85歳)、奥村は昭和39年(1964年)
2月18日に没していますが(74歳)、その子孫はご存命です。
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