あさが来た|あさが治郎作に殴られた理由!超危険だった当時の炭鉱!
朝ドラ『あさが来た』では、舞台は九州の蔵野炭鉱へと移ります。
あさ(波瑠)は意気揚々と炭鉱に乗り込んできたものの、
労働者たちはあさを見下して働いてくれません。
業を煮やしたあさは、自ら坑道を進もうとしますが、
親分の治郎作(山崎銀之丞)に激しく叱責されたばかりか
平手打ちを食らってしまいます。
あさは炭鉱の経営者の妻ですから、使用人である治郎作が殴るなんて言語道断!
とも思えますよね~
ところが当時の炭鉱は近代のものよりも比べ物にならないほど危険で、
いつだって死と隣り合わせだったのです!!
そして治郎吉があさを殴った理由はあさが持っていた提灯でした。
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超危険だった当時の炭鉱!
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近代や現代の炭鉱や鉱山と異なり、当時の炭鉱はとにかく安全面がないがしろになっており、
かなり大規模な事故も発生していました。
まず近代の炭鉱は梁などに強度の基準などがありますが、
当時はそのようなものはありません。
そのため落盤事故などはけっこうありました。
規模の大きいものは公になりますが、小規模の落盤事故の場合は犠牲者が出たとしても
内々に済まされる場合も少なくなかったそうです。
なので炭鉱での犠牲者はこれまでわかっている数字より、
遥かに多かったことも窺えますね。
また炭鉱や鉱山で重要な通気や換気システムも設備的にかなり劣っていたことから、
大規模事故の原因となりました。
具体的に言えば、坑内にガスが充満して酸素欠乏症になったり、
そのガスに引火してガス爆発を起こしたりしました。
さらに坑内に充満した粉塵に引火して、爆発を引き起こすこともありました
(粉じん爆発)
(1963年の三井三池炭鉱爆発事故で吹き飛ばされた車庫)
それら以外にも鉱区が海底にある場合には、落盤によって海水が流入したり、
山津波(地震や雨の土石流が川や湖を塞ぎ、溢れた水が坑内に流入してくる)
などでも大勢の犠牲者が出ました。
明治から大正期の日本での主な炭鉱事故は次のとおりです。
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(明治から大正期の炭鉱事故)
1899年豊国炭鉱(福岡)で爆発事故 死者・行方不明者210人
1907年豊国炭鉱(福岡)で爆発事故 死者・行方不明者365人
1909年大之浦炭鉱(福岡)で爆発事故 死者・行方不明者243人
1912年北炭夕張炭鉱(北海道)で2度の爆発事故 死者・行方不明者計492人
1913年二瀬炭鉱(福岡)で爆発事故 死者・行方不明者101人
1914年新夕張炭鉱(北海道)で爆発事故 死者・行方不明者423人
1914年方城炭鉱(福岡)で爆発事故 死者・行方不明者687人
1916年東見初炭鉱(山口)で海水流入事故 死者・行方不明者235人
1918年大之浦炭鉱(福岡)で爆発事故 死者・行方不明者376人
1920年北炭夕張炭鉱(北海道)で爆発事故 死者・行方不明者209人
大規模な事故だけでも、これだけあります! 小・中規模の事故を含めれば、
その数は無数に上るでしょう。
ちなみに史実の広岡浅子の加島屋が経営していた潤野炭鉱も、
広岡家の手が離れた1903年にガス爆発事故を起こして64人の死者を出しています。
特に明治期から大正のはじめまでは大規模な事故が多発したことから、
政府は1915年(大正4年)に石炭坑爆発取締規則を制定し、炭鉱の安全基準を厳格化します。
これによって炭鉱での事故は減少傾向となります。
まさにドラマで治郎作が言った「死と隣り合わせ」ですね。
ひとたび爆発事故などが起こってしまうと、
取り返しのできないくらいの犠牲が出てしまいます。
それだけ炭鉱は危険な場所で、炭鉱の事情をよく知らない者が足を踏み入れることは
言語道断だったのです。
そしてそれだけではなく、炭鉱の事情を知らないあさは提灯を手に坑内に入りました。
上記にもあるようにガス爆発や粉じん爆発の危険性がありますので、
炭鉱内では火気はご法度です。
あさのように提灯を手にして坑内に入ることは、まさに自殺行為だったのです。
治郎作がオーナー家の嫁のあさを、平手打ちにするほど激怒したのには、
このような理由があったのでした。
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