べっぴんさん|KADOSHO(カドショー)のモデルは丸紅!嫌な予感

 

朝ドラ『べっぴんさん』は昭和44年(1969年)が舞台となる

大阪万博編がスタートすると、重要人物として登場するのが

商社KADOSHO(かどしょう)の社長の古門充信(西岡徳馬)です。

 

古門は栄輔率いるエイスに出資し、その資本を元手にエイスも

全国展開していきます。

 

そして日本全国の若者たちから絶大な支持を得る人気ブランドとなり、

栄輔も日本のファッション界をリードする存在となります。

 

周知の通りエイスのモデルは、メンズアパレルメーカーとして

一世を風靡したVANです。

 

しかしVANはその後は坂道を転げ落ちるように転落し、昭和53年(1978年)には

500億円もの負債を抱えて倒産しています。

 

そのVANを財政的に支援してきたのが五大商社にも数えられる丸紅でしたが、

KADOSHOのモデルは同社です。

 

 

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KADOSHO(カドショー)のモデルは丸紅!エイスに嫌な予感

 

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現在は総合商社として知られる丸紅ですが、150年以上の歴史を持ち、

そのルーツは創業者の初代伊藤忠兵衛が明治5年(1872年)に大阪に開店した

呉服商の紅忠(べんちゅう)です。

 

その後は兄弟会社である伊藤忠商事と分割や合併を繰り返した後、

終戦後に改めて分割されて丸紅株式会社となります。

 

総合商社として成長し続けた同社と石津謙介のVANの関係が深まったのは

昭和44年(1969年)のころ。

 

VANのメーンバンクだった三和銀行が、石津の放漫な経営を危惧して

融資の打ち切りを通告したことがきっかけです。

 

そのため以降は丸紅や三菱商事、伊藤忠商事がVANを支援していくのですが、

もっとも関係が深かったのは当時檜山廣が社長を務めていた丸紅です。

 

元々積極的な経営で知られていた石津ですが、商社の支援を受けるとさらに加速して、

海外ブランドとの提携やラングラージャパンの設立、関連アパレルの

ショップエンドショップスの創設など事業を急速に拡大化していきます。

 

また本社のあった東京青山にVAN99HALLや別館のVAN356などの施設を次々に

建設して、青山をVANビレッジ化していきます。

 

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売上も昭和45年(1970年)に69億円だったのが、昭和47年(1972年)には126億円、

昭和49年(1974年)には452億円と信じられないペースで伸びていきます。

 

とは言え、別の記事でもご紹介しましたが、関連事業のほとんどは赤字で、

石津の放漫経営もあって売上は伸びる一方で負債も膨張していきます。

 

そのため昭和50年(1975年)には石津は社長の座を長男の祥介に譲り

会長に退きますが、業績の悪化には歯止めがかからずに、翌年には

丸紅から出向した佐脇鷹平が社長に就任し再建を目指します。

 

その頃には年商は380億円に落ち込み、ピーク時には2600人もいた従業員は

人員削減や自主退職などで1500人にまで落ち込みました。

 

さらに2年連続の暖冬のため冬物の衣料品の販売不振などの事情も直撃し、

支援していた丸紅、三菱商事、伊藤忠商事の再建のための足並みもそろわずに、

結局は前記の通り昭和53年にVANは倒産となります。

 

このように過度の多角化などの超イケイケ路線をとってあたかも自爆したような

VANの最期でしたが、支援していた丸紅がそれを許していたのも事実です。

 

このあたりを指摘して、VANの倒産の最大の戦犯は石津と並び丸紅でもある

とする意見もあります。

 

史実のVANはこのような運命を辿りましたが、ドラマでもエイスに対する

KADOSHOの支援は嫌な予感がします。

 

ドラマでもエイスはかなり積極的に事業を展開し、短期間で人気ブランドに

のし上がることから心配ですね~

 

このあたりの展開には注目です♪

 

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