べっぴんさん|潔の最後や死因は?モデルの尾上清の最期はどうだった?
朝ドラ『べっぴんさん』はかなりの勢いで物語が流れており、
駆け足でクライマックスに突入するような感じもします。
物語も終盤に差し掛かると、避けては通れないのが
主要キャストの死や別れです。
モデルとなっている人物の一代記として描かれる朝ドラの場合には、
このあたりはやむを得ないところですが、やはり残念ですね~
そして今回取り上げるのは、オライオンの社長の野上潔の最期です。
彼は坂東営業部を再興させたばかりか、五十八亡き後は何かと
すみれや紀夫の相談相手となって、その存在感を発揮しています。
モデルとなっているのがレナウンの会長の尾上清なので、
その大成功に比べるとオライオンがややこじんまり過ぎるのが
気になりますが、今後の大きな躍進も期待できます。
そんな潔の最後や死因はどのようなものになるのでしょうか?
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潔の最後や死因は?モデルの尾上清の最期はどうだった?
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潔の最期を考察するにあたり、やはり参考になるのは尾上清の
最期です。
尾上は昭和22年(1974年)に、社員25名で再興した佐々木営業部を
成長させ続け、レナウンに改組した後も一部上場企業の一大アパレル企業に
育て上げます。
また韓国やブラジル、アメリカにも進出し、外食産業や加工食品業界にも
進出しています。
バブル期には同社は「世界一のアパレルメーカー」と呼ばれましたが、
その礎を築いたのはまさに彼の手腕です。
彼は昭和27年(1952年)にレナウン商事とレナウン工業の社長の座を
腹心に譲り両社の会長に就任しますが、その後は23年にもわたって
グループのトップとして経営のかじ取りをしていきます。
しかし64歳だった昭和50年(1975年)に創業時の社員だった古参幹部たちと
ともに、スパッと現役を引退して理事長に就任しています。
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しかもその後は一度も役員会や幹部会に出席しないという徹底ぶりで、
引退後は再び経営に関与することはありませんでした。
彼については日本経済界の大物にも関わらず資料が非常に少なく、
その晩年も詳細は不明ですが、昭和59年(1984年)に坂野惇子が
雑誌「経済界」の優れた女性経営者に送る「経済界大賞フラワー賞」を
受賞した際には非常に喜び次のような賛辞を贈っています。
「坂野夫婦は会社とは、社員、社会のためにあるという考え方だ。
世間ではとにかく成功すると自分だけの力でやったような顔をする奴が多い。
が、彼らは違う。私など何の援助をした訳じゃない。応援団長だ」
などと述べていますが、これらの言葉は明らかに謙遜ですよね~
戦争で多くを失ったお嬢様の惇子に働くことを勧めたのは彼でしたし、
ファミリアが独立店舗を構える際や銀座店を出店する際にも全面的な
バックアップをしています。
まさに坂野惇子にとっては、尾上清こそが最大の恩人と言っても
過言ではないでしょう。
そんな尾上は最晩年には心臓を患ってしまい、昭和62年(1987年)に
ハワイの病院で手術を受けます。
しかしその年の冬に病状は悪化して、昭和63年(1988年)2月9日に
帰らぬ人になってしまいます(享年76歳)。
死因は肺炎ですが、心臓病が原因とみられます。
このような最期となった尾上ですが、ドラマの潔も同じような道を
辿るかもしれませんね。
いずれにしても、潔は不遇の死を遂げたりすることはないでしょうし、
経営者としてもやることをやり切ったという形で引退するはずです。
このあたりには注目ですね♪
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