わろてんか|隼也のモデルは吉本穎右!てんと藤吉の子ども
朝ドラ『わろてんか』では、てんと藤吉に子どもが生まれて
隼也(しゅんや)と名付けられます。
時は大正3年(1914年)で、寄席の経営も軌道に乗った頃です。
待望の跡継ぎとなる男児の誕生に喜ぶふたりですが、
モデルとなっているのは吉本せいと泰三の次男の
吉本穎右(えいすけ)です。
ところが穎右はその後に悲劇的な運命を辿ることになります。
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隼也のモデルは吉本穎右!てんと藤吉の子ども
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隼也のモデルとなっている吉本穎右が誕生したのは、
大正12年(1923年)のこと。
吉本せいは泰三との間に二男、六女の8人の子どもを
産みますが、成人したのは4人のみ。
跡継ぎ息子だった長男の泰之助を2歳足らずに亡くしており、
男児は穎右のみでした。
穎右を産んだ前の年に泰三を亡くしており、彼はせいにとって
最後の子どもになりました。
また跡取り息子だけあって、せいは穎右を溺愛したと
言われています。
当初から将来の社長として育てられた穎右は、
早稲田大学を中退すると叔父の林弘高のもと
吉本東京で修業しています。
それより少し前の昭和18年(1943年)に20歳の穎右は、
後に運命の人となる笠置シズ子と出会います。
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笠置シズ子は戦後に「ブギの女王」として一世を風靡して、
「東京ブギウギ」や「買い物ブギー」などのヒット曲で知られる
歌手です。
笠置は穎右よりも9歳も年上でしたが、ふたりは恋に落ちていきます。
昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で笠置が自宅を失うと、
ふたりは家を借りて同棲生活を開始。
ふたりの交際を知ったせいは、笠置の年齢や芸能人であることを理由に
猛反対をしています。
しかしふたりの幸せは長続きしませんでした。
昭和22年(1947年)に穎右は肺結核を患うと、
せいのもとに帰って療養することになります。
当時の笠置は穎右の子どもを妊娠しており、
また歌手や女優としても人気が出ており、
大阪に帰ったのはそんな彼女への配慮だったようです。
笠置との結婚に猛反対していたせいですが、
彼女の妊娠を知ると態度を軟化させたようです。
ところが穎右の病は手遅れの状態まで悪化して、
結局同年の5月19日に帰らぬ人となっています。
唯一の跡継ぎを失ったせいの落ち込みようはひどく、
周囲の人も声がかけられないほど落胆していたと言われています。
また笠置も穎右の娘を出産しますが、生涯にわたって
独身を貫きました。
後に一人娘は「(笠置は)吉本穎右ひとすじの人でしたから」
と語っており、穎右とはじめて会ったときにもらった名刺を
終生にわたり肌身離さず身につけていたとのこと。
このあたりは穎右と笠置の愛の深さを如実に示すエピソードですね。
ふたりの出会いから別れまではわずか4年ほどでしたが、
濃密な時間を過ごしたようです。
このようにドラマのてんと藤吉の息子の隼也のモデルは、
悲劇的な最期を遂げた吉本穎右です。
ただしドラマでは隼也の誕生は、穎右よりも9年も
大幅に前倒しになっています。
もしかしたら隼也は穎右のような運命を辿らずに、
ドラマオリジナルの人生を歩むかもしれませんね。
このあたりの展開は不明ですが注目です。
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