わろてんか|吉本興業は漫才をやめていた!吉本新喜劇誕生の秘話

 

朝ドラ『わろてんか』のモデルとなっているのは、

吉本興業とその創始者の吉本せいです。

 

ヒロインのてんは藤吉とともに北村笑店を立ち上げることに

なりますが、その下敷きになっているのが吉本興業部です。

 

吉本せいと吉本興業部はわずか10年ほどで上方の演芸界を席巻し、

現在でも日本における有数の興行会社として知られています。

 

とくに「漫才」については昭和初期のブームの仕掛け人であり、

まさに育ての親といった存在です。

 

現在でも多くのお笑いコンビを世に送り出している吉本興業ですが、

実は漫才をやめていた時期がありました。

 

しかもそれは吉本新喜劇の誕生へとつながっていました。

 

 

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吉本興業は漫才をやめていた!吉本新喜劇誕生の秘話

 

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吉本興業が漫才をやめたのは、昭和20年(1945年)の10月のことです。

 

寄席や劇場の大半を空襲で失っており、当時は極度の物資不足

でしたから、復興の目途すら立っていません。

 

また終戦によって戦時中に禁止されていた様々な西洋のメディアが

解禁されたことにより、当時の吉本興業部の実質的なリーダーだった

林正之助(ドラマの風太のモデル)は映画の時代の到来を予期します。

 

そのため当時500人以上いた専属の芸人を、花菱アチャコ

(ドラマのあさりのモデル)以外すべて解雇することになりました。

 

その中には柳家金語楼や柳家三亀松、横山エンタツ(ドラマのキースの

モデル)やミヤコ蝶々などの売れっ子も含まれていました。

 

正之助は所属芸人たちの借金を帳消しにすることを条件に、

苦渋の決断をしています。

 

なお花菱アチャコにつきましては、吉本側が「一生面倒を見る」との

一筆を入れていたので解雇できませんでした。

 

戦前に上方を中心に演芸王国を築いた吉本興業部でしたが、

あっという間に王国は崩壊を遂げたのです。

 

そして当時の吉本の台所事情は火の車でしたからその後の動きは早く、

戦争でダメージを受けた寄席や劇場を改修し、翌年には

千日前グランド劇場と梅田グランドを、昭和22年(1947年)には

新世界グランドをオープンさせています。

 

上記の3つの劇場はいずれも洋画専門の映画館でした。

 

それとともにグランド京都を昭和21年(1946年)10月から、

進駐軍専門のキャバレーにして大成功を遂げます。

 

吉本興業の終戦直後を支えたのが映画事業とキャバレーの経営で、

これによって経営は軌道に乗って、昭和23年(1948年)には

株式会社に改組してせいが会長、正之助が社長になっています。

 

昭和25年(1950年)にせいが62歳で逝去しますが、

当時の吉本は演芸の興行はまったくおこなっていませんでした。

 

小さな寄席の経営からスタートして、上方の演芸界を支配するまで

至ったせいはどのような想いで逝ったのでしょうか?

 

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昭和26年(1951年)には大阪に民間のラジオ局が開業したり、

昭和28年(1953年)からテレビ放送がはじまったことから、

再び演芸ブームが巻き起こりました。

 

吉本唯一の所属芸人である花菱アチャコはこのブームに乗って

爆発的な人気を得ましたが、それでも吉本は再び演芸界に

戻ろうとはしませんでした。

 

ところが昭和30年代に入るとテレビの普及によって、

映画産業に陰りが見えはじめました。

 

進駐軍は既に去っているので、当時の吉本の利益は大半が

映画事業によるものです。

 

そのため後に吉本興業の社長を務めることになる八田竹男らが、

吉本の演芸界への復帰を強く主張します。

 

その結果昭和34年(1959年)にうめだ花月がオープンし、

吉本興業は実に14年ぶりに演芸界に復帰しました。

 

 

しかし当時の興行界のトップに君臨していた松竹との力の差は歴然で

(吉本が解雇した多数の芸人も所属していた)、うめだ花月も

かなりの苦戦を強いられました。

 

当時の松竹新喜劇は渋谷天外や藤山寛美を擁し、

義理人情ものをウリにしていました。

 

そのため吉本は松竹新喜劇とは異なって、

とことんドタバタ路線をとることで対抗しました。

 

それこそがまさに現在でも大人気の吉本新喜劇

誕生だったのです。

 

さらに大村崑や芦屋雁之助・小雁、子役の中山千夏らとの

契約がまとまって、吉本新喜劇は充実します。

 

とは言え昭和30年代の吉本興業の経営はジリ貧で、

衣装代や道具代の支払いも滞るほどでした。

 

ところが昭和30年代末期にボーリングブームが巻き起こると、

吉本もそれに乗って昭和39年(1964年)に西日本最大規模の

「ボウル吉本」を建設。

 

 

昭和40年代前半までは吉本興行の収益はボーリング場が支えていました。

 

そしてその後は吉本所属の笑福亭仁鶴西川きよし・横山やすし

桂三枝らの人気に火がついて、吉本の演芸界での復権がなされることに

なります。

 

長々と書きましたが、終戦直後の吉本興業は自らの手で漫才などの

興行をやめて、かなりの苦難を経ながら再び興行界に復帰しています。

 

現在では日本の代表的な興行会社である同社ですが、

ここまでの道のりは決して平たんではなく

山あり谷ありだったのです。

 

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