わろてんか|当時の上方落語が凄かった!栄枯盛衰に驚いた!
朝ドラ『わろてんか』は寄席が舞台だけに、
様々な演芸が登場します。
その中でも王道のような立場にあるのが落語です。
現在の上方の演芸の王座と言えば漫才ですが、
当時は上方落語でした。
そのためドラマでも喜楽亭文鳥、月の井団吾、団真といった
落語家たちが登場して重要な役割を果たすことになります。
当時の上方落語はすごい勢いがあったのです!
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当時の上方落語が凄かった!栄枯盛衰に驚いた!
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上方落語とは主に大阪や京都で演じられる落語を指しますが、
その起源は江戸落語と同様に江戸時代中期です。
三味線や太鼓などの楽器が入ったり、見台という机を使ったり
するのが上方落語の特徴です。
江戸時代末期までに桂一門や笑福亭一門、立川一門、
林家(林屋)一門の四門派が形成され人気を分け合います。
明治時代に突入すると桂一門が最大派閥となっていきますが、
二代目桂文枝の跡目争いで桂一門は分裂。
二代目文枝を中心として伝統的な噺をじっくりと聴かせる桂派と、
桂文都や桂文團治らが中心となった派手で陽気な三友派の
二派が並立することになります。
そんな中、明治40年(1907年)ごろに上方落語は全盛期を
迎えることになります。
当時の演芸のうち歌舞伎と落語は別格で落語は寄席の
メインイベントでしたし、「色物」と呼ばれた漫才や曲芸などの
芸人たちに比べて落語家たちの演芸界での地位は高いものでした。
ドラマでも時として落語家たちが横柄な態度をとることがありますが、
このような時代背景があったからです。
それほどまでに勢いのあった上方落語ですが、大正期に入ると
徐々に失速していきます。
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上方落語は伝統的に落語家同志の内部抗争が多くまとまりを欠いた
ことや、その地位にかまけて旧態依然の古い芸に安住して
ファンが離れたことなどがその原因とされています。
昭和に入ると既に桂派や三友派は解体されて上方の落語家たちは
吉本興業部の傘下に入っていましたが、吉本せいの実弟の
林正之助が落語よりも漫才を推すと上方落語はまさに
存亡の危機に晒されます。
昭和9年(1934年)に上方落語の中でも孤軍奮闘していた
初代桂春団治が亡くなるとその傾向は顕著になって、
吉本の寄席ではトリを務めるのは落語家ではなく
漫才師などの芸人となっていきます。
こうした状況の中、危機感を抱いていた五代目笑福亭松鶴や
四代目桂米団治などが、楽語荘というグループを作って
上方落語を盛り上げようとしますが、その凋落は止まりませんでした。
終戦後に彼らが相次いで亡くなると上方落語はどん底の時代を
迎えることになり、上方落語は終焉したとまで言われることになります。
そんな中、昭和20年代後半からテレビ放送がはじまると、
コンテンツのひとつとして再び上方落語にスポットがあたる
ことになります。
さらに分裂していた上方落語は、昭和32年(1957年)に
ようやく上方落語協会を発足させて復興を目指します。
そんな流れで昭和40年代に入ると、笑福亭仁鶴や桂三枝
(六代目桂文枝)、笑福亭鶴光などが人気を集めます。
特に当時の仁鶴の人気は凄まじく、テレビやラジオに引っ張りだこで、
その結果入門者を増やすなど多大な功績を残しています。
現在では完全に復興した上方落語ですが、
このような波乱の歴史を辿っています。
江戸落語が現在に至るまで安定した人気を誇っていることとは
対照的ですね。
ドラマでも上方落語の栄枯盛衰が描かれるでしょうから
注目ですね♪
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