わろてんか|キースのモノマネ芸がつまらない!ブレイクはいつ?
朝ドラ『わろてんか』では、てんと藤吉の寄席「風鳥亭」に
芸人長屋の面々が出演。
風鳥亭は端席と呼ばれるほど格の低い寄席ですし、
金銭面の事情もあって一流どころの落語家などは呼べません。
そのためキースやあさり、万丈目らが入れ替わり立ちで
芸を披露するのですが、これがなかなか辛いものがあります。
特にキースのモノマネはかなり寒いですね…アメリカ大統領や
ナポレオンなどを取り入れているのは斬新ですが、
なかなか理解してもらえません。
いったいいつになったらキースの芸は面白くなるのでしょうか?
そしてブレイクはするのでしょうか?
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キースのモノマネ芸がつまらない!ブレイクはいつ?
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まず前提としてキースら芸人たちの意識が大きく変わるのは、
落語家の月の井団吾の登場後です。
団吾は型破りな風雲児で、「女遊びは芸の肥し。借金はせなあかん」
などちゃらんぽらんな面を多分に有しています。
ところがその芸は天才的で本物。
しかも誰も見ていないところでは、血へどを吐くような
努力を重ねているという設定です。
彼の登場によってキースたちは現状に甘えていて向上心に欠ける
ことに気づくなど、大きな意識変化をもたらします。
そのため彼らはさらに切磋琢磨して芸を磨くことになります。
しかしだからと言ってすぐにブレイクするほど甘くはありません。
キースがブレイクするのは、あさりと組んで漫才をはじめるころです。
風鳥亭が開業した当時は漫才はポピュラーな演目ではなく、
漫才を演じる芸人もいません。
しかしその後は徐々に漫才が台頭し、これに目を付けた
キースとあさりがコンビを組むことになります。
その上で「しゃべくり漫才」を考案すると、ようやくコンビは
ブレイクするという流れです。
実際にキースのモデルの横山エンタツも、遅咲きの芸人でした。
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エンタツは兵庫県立伊丹中学校(現伊丹高校)を2年で中退した後に、
様々な職業を経験。
18歳だった大正3年(1914年)に新派の一座に入団したことを皮切りに、
中国大陸を転々としますがうまくいきません。
漫才を始めたのは大正8年(1919年)からで、後にコンビを組むことになる
花菱アチャコとしゃべくり漫才を披露しましたが、新しすぎて不発に終わります。
その後昭和4年(1929年)に漫才師や浪曲師、踊り子などを引き連れて
アメリカ巡業に出ましたが、またもや失敗。
その間にはパーマ機や買い物袋、ヘアピンなどの販売で
実業家を目指しますが、それらもことごとく失敗します。
そんなエンタツに運が向いてきたのは昭和5年(1930年)4月のこと
でした。
吉本せいの実弟の林正之助(ドラマの風太のモデル)が、
数年前に見たエンタツの芸が何となく気になって、
吉本興業部にスカウトしに来たのです。
当初エンタツは吉本興業部入りを渋りますが、
正之助が直々に出馬して「日本一の漫才にしてやる」
との口説き文句で吉本入りを決断します。
エンタツの持っていたモダンな雰囲気を活かすために、
正之助は当時売れっ子コンビだった千歳屋今男・花菱アチャコの
コンビを解散させて、アチャコと組ませます。
すると当時人気のあった早慶戦などの時事ネタを取り入れた
しゃべくり漫才で、コンビは大ブレイクを果たしました。
当時エンタツは既に34歳になっていましたし、
かなりの遅咲き芸人だったのです。
ドラマでもキースはブレイクすることになるでしょうが、
まだまだ先の話のようです。
恐らくはあさりとのコンビ結成もドラマの後半になるでしょう。
それまでは彼らの寒い芸にも我慢です(つまらく芸を演じる
役者さんたちの演技力にも注目です)
とは言え、彼の芸人としての成長にも期待ですね♪
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