わろてんか|藤吉郎の死因や最後|モデルの泰三と同じ早死になの?

 

朝ドラ「わろてんか」では、風鳥亭を開業したてんと藤吉郎の夫婦は、

紆余曲折ありながらも次々と大阪市内の寄席を購入。

 

モデルとなった吉本せいや吉本興業部は、わずか10年ほどで上方の演芸界を

席巻するほどのお笑い王国を築き上げています。

 

そのため今後はてんや藤吉郎の会社である北村笑店は規模を拡大し、

上方演芸界の一大勢力となっていくことが予想されます。

 

しかしこのあたりで懸念されるのが、藤吉郎の死や最後です。

 

モデルとなっている吉本泰三は早死にしているので心配です。

 

 

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藤吉郎の死や最後|モデルの泰三と同じ早死になの?

 

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藤吉郎のモデルとなっている吉本泰三は、大正13年(1924年)213日に

突然倒れて、あっけない最期を迎えています。

 

 

死因は脳溢血で、享年37歳でした。

 

大正10年(1921年)に吉本興業部は、三友派の大看板だった落語家

桂春団治(ドラマの月の井団吾)の引き抜きに成功。

 

さらにはこれまで10年あまりにわたって盟友関係だった浪速落語反対派

(ドラマのオチャラケ派)の乗っ取りにも成功して、上方演芸界の覇権を

握ります。

 

既にその頃は吉本興業部が経営する寄席は30軒を超えていました。

 

また泰三の死の前年には関東大震災が発生しており、その際には吉本は

慰問団を派遣して、関東在住の落語家や芸人に慰問品を届けるなど、

東京の演芸界でも「吉本」の名を知らしめています。

 

これが後に、関東の大物落語家らの吉本の高座への登壇につながっており、

かなり勢いのある頃でした。

 

そんな中逝ってしまった泰三ですが、倒れたのは妾の家との説もあります

(山崎豊子の小説「花のれん」などでもそうなっている)

 

ダメ亭主として広く知られた泰三ですが、寄席をはじめようとしたことや

寄席のフランチャイズ化を図ってM&Aを繰り返したアイデアなどは

泰三のものとも言われており、その死は少なからず妻のせいにも

影響が及んだはず。

 

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そしてせいは泰三の死をきっかけに、実弟の正之助(ドラマの風太の

モデル)を右腕に起用します。

 

その上で、新たな娯楽として注目されていた漫才を猛プッシュして

一大ムーブメントを起こします。

 

結局、戦前の全盛期であった昭和11年(1936年)までに吉本興業部が

経営する寄席は47軒にも拡大。

 

この頃には大阪や京都、神戸だけではなく、東京や横浜と言った首都圏にも

進出していました。

 

泰三亡きあとのせいの奮闘や正之助の期待以上の働きなどで、

まさに吉本興業部は黄金時代を築いています。

 

ドラマでの藤吉郎の最後は現時点では不明ですが、史実に忠実に描くのなら

ば、30代半ばで突然死を迎えることになります。

 

ただしドラマの彼はモデルの泰三と異なり、自らの手で寄席を切り盛りする

など、積極的に動いています。

 

この点は寄席の経営をほとんど妻任せにした泰三とは大きくキャラクターが

異なるところですので、その死や最後なども大幅に修正してくる可能性も

あります。

 

このあたりには注目しながらも、藤吉郎の活躍に注目しましょう♪

 

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