わろてんか|吉本せいの子供はどうなった?跡継ぎは誰?
朝ドラ『わろてんか』では、寄席の経営が軌道に乗るとてんと藤吉が
正式に結婚し、隼也(しゅんや)という息子も誕生します。
その後は親子三人で手を取り合いながら大阪中に笑いを広めるために
まい進していきますが、隼也の成長も楽しみです♪
ところでヒロインてんのモデルとなったのは吉本興業の創始者の吉本せい
ですが、彼女の子供や跡継ぎはどうだったのでしょうか?
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吉本せいの子供はどうなった?跡継ぎは誰?
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てんのモデルの吉本せいは明治40年(1907年)に吉本吉次郎(後の泰三)に
嫁ぎ、正式に入籍した明治43年(1910年)に長女の喜代子を出産。
以降、大正12年(1923年)までに10人の子供を出産しています。
そのうち戸籍に名前が残っているのは以下の8名で、他の2人は夭折した
模様です。
明治43年(1910年) 喜代子/長女
明治44年(1911年) 千代子/次女
大正3年(1914年) 峯子/三女
大正4年(1915年) 吉子/四女
大正5年(1916年) 泰之助/長男
大正9年(1920年) 幸子/五女
大正11年(1922年) 邦子/六女
大正12年(1923年) 泰典/次男
(左から泰三、千代子、峯子、せい)
この8人の子供も長男の泰之助が2歳で亡くなるなどしており、成人したのは
三女の峯子と五女の幸子、六女の邦子、次男の泰典(後の穎右)の4人のみ。
このうち男児は穎右だけですから、彼が吉本興業部の跡取りとなるのは
既定路線でした。
夫の泰三は大正13年(1924年)に亡くなっていますから、
穎右はせいにとって待望の男児であり、溺愛もしました。
しかし他の記事でも紹介しましたが、最愛の息子の穎右はブギの女王の
笠置シヅ子との間に娘をもうけたものの、昭和22年(1947年)に
結核により24歳の若さで亡くなっています。
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その後、せいも昭和25年(1950年)に60歳で死去していることから、
以降は吉本興業の実権はせいの弟の林正之助、弘高の林家に移っています。
三女の峯子が吉本興業の株式を相続しており、六女の邦子は後に
吉本興業の取締役を務める辻阪昌一と結婚するなど、せいの死去後も
その娘たちはそれなりの影響力を有したものの、前面に出てくることは
なかったようです。
その後は1973年まではせいの実弟の正之助が吉本興業の社長を務め
(1963年~1970年までは弘高)
1986年から1991年まで正之助が3度目の社長就任。
1999年から2005年までは正之助の女婿の林裕章が9代目の社長を務める
など、林家は近年まで吉本興業の経営に大きな影響を及ぼしています。
このように吉本せいの子供や子孫は、吉本興業に対しさほど大きな影響力は
持たなかったようですね。
ドラマではてんと藤吉の息子の隼也がどのように描かれるかも注目です。
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