わろてんか|吉本の寄席の拡大が凄かった!松島風鳥亭のモデルは?

 

朝ドラ『わろてんか』では、藤吉は2件目の寄席の買収に奔走することになります。

 

木戸銭を5銭にすると風鳥亭は大いに賑わって、経営も完全に軌道に乗りました。

 

藤吉は木戸銭の安さと寄席の数で勝負する薄利多売路線を目指すことから、

さらなる寄席の買収へと動きはじめました。

 

その手始めとなるのが、松島風鳥亭と玉造風鳥亭の買収です。

 

経営する寄席の数が一気に三倍になりますが、モデルとなっている

吉本興業部の寄席の買収や拡大のスピードが凄かったのです。

 

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吉本の寄席の拡大が凄かった!松島風鳥亭のモデルは?

 

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吉本せいと泰三夫婦は明治45年(1912年)にドラマの風鳥亭のモデル

となった、天満天神裏門近くの第二文藝館を買収して寄席の経営に着手します。

 

第二文藝館は経営難の端席でしたが、木戸銭のダンピングなどで

たちまち客足も伸びることになります。

 

このあたりは寄席の経営を切り盛りしたせいの手腕が光りましたが、

泰三はさらに寄席のチェーン化を図ります。

 

当時は寄席の経営者が複数の寄席を持つことはあまりありませんでしたが、

吉本の寄席は格安をウリにしているのでより多くの利益を挙げるためには

チェーン化が近道だったからです。

 

また出演芸人もたらい回しで使えますから、これはなかなかのアイデアでした。

 

泰三の通説的な評価はよしもとせいのダメ亭主ですが、このあたりは

彼の大きな功績のひとつでしょう♪

 

しかも吉本の動きは早く、大正3年(1914年)には松島芦辺館と福島龍虎館、

梅田松井座、天神橋都座の4つの寄席の買収に成功しています。

 

新たな4つの寄席もすべて端席と呼ばれる格の低いものでしたが、

第二文藝館のオープンからわずか3年で吉本夫婦は5件もの寄席を

経営することになりました。

 

もちろん新たな寄席も木戸銭をリーズナブルに設定する薄利多売路線で、

売上を伸ばしていきました。

 

さらに勢いづいた吉本夫婦は大正4年(1915年)に大阪・法善寺の

金沢亭の買収に成功します(大正7年という説もあり)

 

(金沢亭)

 

金沢亭はこれまでの吉本が経営する端席とは一線を画するほどの上席で、

上方落語の正統派の桂派の拠点として長らく権勢を誇っていました。

 

同じく超一流の寄席で三友派の拠点でもあった紅梅亭としのぎを削って

いましたが、桂派の凋落とともに経営が悪化。

 

当時は蓬莱館と名前を変えていましたが、吉本夫婦は13,000円で

これを買収しました。

 

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これによって桂派は完全に消滅して、幾人かの落語家たちも

吉本に移籍しています。

 

吉本夫婦はかねてからの念願だった一流の寄席の買収を、

わずか4年でやってのけることになります。

 

そして夫婦は買収した金沢亭を「南地花月」と改めて、同時に第二文藝館は

 

天満花月、芦辺館は松島花月、都座は天神花月、龍虎館は福島花月に

改めています。

 

うめだ花月やなんばグランド花月など現在でも吉本興業が経営する

寄席や劇場には「花月」という名称が用いられていますが、

そのルーツとなったのが南地花月です。

 

ちなみに新たに経営に乗り出した南地花月はライバルの紅梅亭の木戸銭が

30銭だったことから、木戸銭を20銭にダンピングをしています。

 

またドラマでは新たに松島風鳥亭と玉造風鳥亭のふたつの寄席が登場

しますが、松島風鳥亭の経営は前記の松島芦辺館です。

 

ただし当時は玉造など大阪中央区に吉本の寄席はなく、

ドラマの玉造風鳥亭のほうはドラマオリジナルの寄席でしょう。

 

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