わろてんか|リリコのモデルはミスワカナだった!波乱の人生と死

 

朝ドラ『わろてんか』では、追加キャストが発表されて松尾諭さん演じる

川上四郎がリリコの漫才の相手役となることが判明。

 

しかも彼らのスタイルは四郎のアコーディオンの伴奏で、リリコが歌う

流行歌漫才とのこと。

 

ドラマではリリコは娘義太夫で東京で名をなすということでしたから、

そのモデルとなる人物も「該当者なし」でした。

 

ところが前記の発表によれば、戦前に玉松一郎とともに歌謡漫才で

一世を風靡したミスワカナがモデルであることが判明しました。

 

彼女の波乱に満ち溢れた人生をご紹介します。

 

コンテンツ

リリコのモデルはミスワカナだった!波乱の人生と死

 

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ミスワカナ

 

 

明治43年(1910年)1020日~昭和21年(1946年)1015

本名は河本杉子

 

ミスワカナは幼い頃から父親と巡業に出ていますが、4歳の時に父親が死去。

 

9歳の時に安来節の師匠に弟子入りし、安来節の女踊りで活躍しています。

 

また学校にもほとんど通ったことがなかったことから、文字がまったく

読めませんでした。

 

14歳で2代目河内家芳春に入門して漫才師に転向すると、河内家小芳を

名乗って玉子家金之助とコンビを組んで活動をはじめます。

 

相方の金之助は後にワカナの許嫁となっています。

 

大正14年(1925年)に平和ニコニコとコンビを組んでいた際に、

無声映画の伴奏をしていた玉松一郎(川上四郎のモデル)と出会います。

 

当時はワカナ14歳、一郎は19歳でしたが、ふたりは恋に落ちることになります。

 

ところが一郎とワカナの交際は一郎の家族に猛反対されたことから、

失意のワカナは昭和3年(1928年)に郷里の鳥取に戻って、許嫁の金之助と

結婚して娘を出産しています。

 

しかし芸能活動に諦めがつかなったかったワカナは、昭和4年(1929年)に

半ば家出状態で大阪に戻ります。

 

大阪に戻って漫才師としての活動を再開すると、タバコを買いに出かけた

際に、なんと一郎と劇的な再会を果たします。

 

ふたりの恋は再び燃え上がり、両家の親の猛反対にも関わらず、

ワカナと一郎は広島の興行師を頼って駆け落ちします。

 

その後も当てもなく西へ流れたふたりがたどり着いたのは、中国の青島でした。

 

そこでとうとう一郎が過労のために倒れると、ワカナはダンサーとなって

働くことになります。

 

そこでワカナはダンスやタップなどをマスターし、一郎はアコーディオンを

習得しましたが、これらは後の彼らの芸に活きることになります。

 

昭和6年(1931年)に帰国してワカナは都家若菜と改名して、

一郎とのコンビでの活動をスタート。

 

九州巡業などを敢行していますが、さほど注目されることはありませんでした。

 

ところが昭和12年(1937年)に吉本せいの実弟の林正之助の目に留まった

ことで、ワカナと一郎の運命が好転しはじめます。

 

吉本興業部は昭和のはじめに上方落語を見限って、当時台頭していた漫才を

猛プッシュしていました。

 

昭和5年(1930年)に横山エンタツと花菱アチャコのコンビがブレイクを

果たすと、正之助は新人の発掘に精を出しはじめます。

 

また昭和9年(1934年)には吉本興業部所属で上方落語の一大看板だった

桂春団治が死去しており、エンタツ・アチャコに次ぐ漫才師の発掘は

当時の吉本にとっては急務だったのです。

 

そんな正之助に目をつけられたのが、ワカナと一郎という訳だったのです。

 

当時吉本興業部に所属していた漫才作家で、後に「上方漫才の父」と

呼ばれるようになる秋田実がふたりを鍛えて育てます。

 

すると歌が歌えてダンスもできる饒舌なワカナと、ロイド眼鏡が

トレードマークで当時流行していたアコーディオンを手にした

一郎の斬新な漫才コンビが誕生。

 

 

ワカナは洋装で舞台に立ったはじめての女芸人として知られていますし、

一郎も漫才にアコーディオンをはじめて導入した人物とされ、

ふたりのスタイルがいかに新しかったかを物語っています。

 

その芸風は一郎の伴奏でワカナが流行歌を歌いまくりながら、

片言の英語を交えた話術とダンスを交えたもの。

 

英語もダンスも中国時代に覚えたもので、「歌謡漫才」という

まったく新しいジャンルを切り開いています。

 

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当初からワカナと一郎の評判はよかったことから、正之助はこのコンビを

どんどん抜擢していきます。

 

大阪中にあった花月の舞台はもちろんのこと、ラジオの寄席中継や

エンタツ・アチャコの喜劇映画にも起用したほどでした。

 

そのため先輩芸人などにかなり妬まれたようで嫌な思いもしましたが、

吉本入りからわずか2年ほどで押しも押されぬトップスターとなっています。

 

ところが人気絶頂だった昭和14年(1939年)3月にワカナと一郎は

突然姿を消すと、松竹系の新興キネマに引き抜かれて契約を交わしていたのです。

 

これに激怒した吉本側はふたりの出演禁止を求める仮処分を申請して

法的手段に出るなど、松竹との対立もエスカレート。

 

最終的には警察が乗り出して両社を和解させますが、ワカナと一郎は

新興キネマへの移籍ということで決着がつきます。

 

その際にワカナは吉本や新興キネマとの契約内容を明らかにしており、

吉本ではコンビで月給60円からスタートして、脱退時は230円。

 

新興キネマの月給はコンビで1000円で3年間の専属料が7000円、

レコードの吹込みやラジオ番組への出演は自由という破格のものでした。

 

ワカナと一郎の引き抜きは、一説にはふたりの成功を妬んだ横山エンタツに

乗せられたという見解もありますが、真偽は不明です。

 

ワカナらを擁する新興キネマは大阪の演芸界に殴り込んで来るのですが、

吉本の牙城は揺るがず、わずか2年でこの戦いにケリが付けられています。

 

その際にワカナと一郎は正之助に謝罪して、吉本興業部に戻ることを

懇願していますが、正之助はそれを認めませんでした。

 

昭和19年(1944年)にワカナは妻子持ちの俳優と浮気して、

一郎とは離婚することになりますが、コンビは継続。

 

戦後もコンビで活動をしますが、昭和21年(1946年)1015日に

阪急西宮球場での野外演芸会の帰りに、阪急西宮北口駅のホームで

心臓発作をおこして36歳の若さで急逝しています。

 

突然死の原因はヒロポン中毒と過労が原因との見解もありますが、

当時の付き人がヒロポンは死の2年ほど前からやめていたことを

証言しており、真相は不明になっています。

 

美人で鳴らし、波乱に富んだワカナの一生はたびたび舞台やテレビで

放送されて、森光子さんや田中好子さん、三倉佳奈さんや水野真紀さん、

藤山直美さんらも演じています。

 

特に生前にワカナに可愛がられていた森さんが演じた「おもろい女」は、

その代表的な作品でした。

 

 

また林正之助はかつて吉本所属の大助・花子に、ワカナ・一郎の名前を

継がないかと持ちかけたこともありました。

 

ミスワカナの波乱万丈の生涯をまとめてみましたが、ドラマではどのように

描かれるのでしょうか?

 

今回の朝ドラはモデルの史実などをかなり崩しているので、

もしかしたらリリコとワカナは別キャラのようかもしれません。

 

このあたりにも注目ですね♪

 

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