あさが来た|成澤泉の妻カナエのモデルは?悲運な美人妻の最期!
朝ドラ『あさが来た』は加野銀行の開業に沸く中、成澤泉(瀬戸康史)が
登場しました。
美和の経営するレストランで、妻のカナエ(宮嶋麻衣)と食事をしていた成澤は
米国への留学を決意したようですね。
成澤はアメリカから帰国後、日本初の女子大学の設立に奔走し、
その理念に共感したあさもこれに多大な貢献をすることになります。
ドラマで本格的に成澤が活躍することになるのは、
しばらく先のことになりそうですが今から楽しみです。
成澤泉のモデルとなっているのは、日本女子大学校の創設者の成瀬仁蔵です。
この成瀬は当時としては画期的な女子教育論を発表して、日本の女子教育に
大きな足跡を残した人物です。
しかしその陰では、妻の悲運な最期がありました。
成澤泉の妻のカナエのモデルや最期をご紹介していきます。
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成澤泉の妻カナエのモデルは?悲運な最期を遂げる!
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成澤泉のモデルの成瀬仁蔵は、20歳で最初のアメリカ留学をしていますが、
帰国後は大阪の梅花女学校で教員を務めていました。
そして明治12年(1879年)に梅花女学校の教え子だった旧福井藩士の娘の
服部満寿枝と結婚します。
(成瀬の妻・満寿枝)
この服部満寿枝が、ドラマの成澤泉の妻カナエのモデルです。
かなりの美人さんですね~
成瀬は当時21歳でしたが、満寿枝は女学校の生徒だったことから、
恐らく10代だったのでしょう。
その後、成瀬は教職を辞して牧師として活動する傍ら、
女子教育の研究にも励みます。
そして新潟女学校の校長などを勤めた後に、明治23年(1890年)に再びアメリカに渡り、
女子教育を学ぶのですが、ドラマではこの頃を描いたのですね。
成瀬は2度目の留学では4年間ほどアメリカに滞在しましたから、
妻の満寿枝は長きに渡って夫不在の家を守ったことになります。
成瀬は明治27年(1894年)に帰国しますが、改めて当時の日本の女子教育を
目の当たりにして、世界的にも遅れていることを痛感します。
そのため明治29年(1896年)に理想とする女子大学校の設立のために動きますが、
その中であさのモデルの広岡浅子と出会うことになります。
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浅子との出会いによって、成瀬の女子大学校の構想は大きく動き出しますが、
その時にはもともと病弱だった妻の満寿枝は病床にありました。
また女子大学校の計画も途中で財政難になったことから、明治30年(1897年)には
満寿枝とは離婚して、親戚に引き取らせています。
これは愛情がなくなったというよりも、借金などで満寿枝に迷惑がかかることを
防ぐための離婚だったようです。
しかしその後は親戚の元で療養生活を送っていた満寿枝でしたが、
その甲斐なく明治33年(1900年)9月に亡くなっています。
成瀬の悲願だった日本女子大学校の開校は明治34年(1901年)4月ですから、
満寿枝はその約半年前に亡くなったことになります。
満寿枝にとっては夫の長きに渡る悲願の大学校の開校を見届けることができなくて、
さぞ無念だったはずです。
また成瀬も大学校の開校を、病気がちながら長きに渡って支えてくれた満寿枝に
ぜひとも見てもらいたかったはずでしょう。
各界からの大きな支援を受け日本初の女子大学校として華やかに開校する
日本女子大学校でしたが、その陰には成瀬と満寿枝の悲話があったのです。
ドラマでは恐らく描かれないでしょうが、成瀬の妻の満寿枝は
本当に可哀想な運命を辿ります。
しかし満寿枝は成瀬に献身的だったと言いますし、二度も長期間にわたり
アメリカに留学した成瀬の代わりに家を守っています。
開校した日本女子大学校を見届けることができずにさぞ無念だったでしょうが、
成瀬の理念や理想は多くの卒業生たちに受け継がれていきましたから、
満寿枝の死も決して無駄ではなかったはずです。
ちなみに成瀬も再婚はせずに、一生独身を貫き通しました。
満寿枝と成瀬の間には子どもがいなかったことから成瀬家は断絶してしまいますが、
そのあたりにも成瀬の満寿枝に対する深い愛情が感じられますね。
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