あさが来た|千代は恵まれていた?当時の女学校や女子教育の実情!
朝ドラ『あさが来た』では、千代の進路を巡ってあさと千代の対立や
溝が深まっています。
自分が千代くらいの年齢の時は、学びたくても学べなかったあさは
千代の将来のために女学校への進学を勧めます。
ところがあまり勉強に興味のない千代は、高等小学校を卒業後は花嫁修業
をすると主張し、両者の対立は平行線を辿ります。
あさの気持ちも痛いほどわかりますが、女学校へ行くというのは
「お母さん(あさ)の夢」という千代の言い分もわからないわけではありませんね。
ところで当時の女学校というのはどのような位置づけだったのでしょうか?
女子教育の実情とともにご紹介していきます。
(広岡亀子の母校・京都府高等女学校の生徒たち)
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千代は恵まれていた?当時の女学校や女子教育の実情!
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まず千代は明治9年(1876年)生まれで、ドラマでは14歳くらいなので
舞台となっているのは明治23年(1890年)あたりですね。
当時はちょうど児童教育の整備が進んでいる最中で、制度もコロコロと変わっており
けっこう複雑だった頃です。
ですが、大まかに説明すると女子も男子も尋常小学校(6年制・現在の小学校に該当)
を卒業すると、成績が優秀で経済的にも問題なければ、男子は中等学校
(現在の中学と高校にあたる)を経て高等学校(現在の大学)に進むのが一般的でした。
女子でも成績が優秀ならば、尋常小学校卒業後に直接女学校(4年から5年)に
進学するルートがありました。
ドラマの千代は成績がそれほどでもなかったと考えられ、尋常小学校卒業後は
高等小学校(2年制・現在の中学にあたる)に進学していますね。
しかし高等小学校を経て女学校へ進むルートもあり、その場合は修業状況により、
女学校の期間も3年まで短縮されることもありました。
ドラマでは千代は高等小学校を卒業後に、この女学校に進学すべきかどうかを
迷っているところです。
しかし当時の女学校に進学する女子は明治38年(1905年)の時点で、
5%弱というものでした。
しかもその多くは尋常小学校を卒業に女学校へと進む者ですから、
千代のように高等小学校から女学校へ進学する女子はごくわずかです。
ドラマでも千代が女学校に進学するのは「1人か2人」と言っていましたが、
本当に少数だったようです。
なぜこのように女学校への進学率が少ないかと言えば、
やはり女子には教育が不要と考えられていたことが大きいです。
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また当時の女子は17歳くらいで大半が結婚していましたから、
なおさら教育不要とされる傾向が強かったのでしょう。
たとえば当時は既に義務教育が始まっていましたが、明治20年代の女子の
尋常小学校への通学率もなんとわずか30%程度です。
世の中の7割もの女子が小学校すら通っていなかったのです!
ちなみに明治33年(1900年)に小学校が無償化されると通学率は爆発的に増えて、
大正4年(1914年)には90%以上の児童が尋常小学校へ通学することになります。
さらには学費の問題もありました。
明治20年代の一般的な会社の初任給は10円程度と言われていますが、
この頃の女学校の学費は月1円50銭から2円程度です。
ムリができないほどバカ高くはなかったのですが、
やはりある程度の経済力がなければ女学校への進学はなかなか難しいですよね。
ドラマの背景にはこのような事情がありました。
しかし千代の実家の白岡家には経済的に余裕があるので、
進学にも何ら問題がないはずですね。
また藍之助が小学校では学業優秀だったにも関わらず、
上級学校への進学を断念した経緯などを考えると、
やはり千代は恵まれていますよね~
最終的には千代は女学校に進学しますが、その心境の変化などにも
注目したいですね。
なお、当時の女子教育は今とは比較にならないほどの状況ですね。
日本女子大学校を設立した成瀬仁蔵が「最下等」と表現した通り、
日本における女子教育は散々たる現状でした。
しかもこれはわずか100年前の出来事です。
現在では中学までは義務教育ですし、女子でもほとんどの人が高校まで進学します。
このような教育環境を作ってくれたのが成瀬仁蔵や津田梅子など女子教育の向上に
務めた多くの人々のおかげです。
改めてそのありがたさを感じました。
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